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まず自分の外側に張り付いているものを削ぎ落とす。その先に残るものを一番活かせるステージを選ぶことがライフシフト――坂本淳さん

ライフシフトをした人たちのストーリーを紹介する連載「ライフシフトの向こう側」。
今回紹介するのは、難病によって自らが障がい者となり、その経験を通じて新しい使命を感じ、ライフシフトの道を選んだ坂本淳さんです。
 人の生死と向き合った坂本さんの言葉は、とても深く、「自分の命をどう全うしていくのか」という問いを優しく内包していました。
 誠実なまなざしでクライアントに寄り添う坂本さんのストーリーには、人生に悩んでいる人の背中を押す力が溢れています。ぜひ堪能してください。
 
▶この特集では、ミドルシニアが自身の経験や好きなことを発揮できるあたらしい『出番』を創出する「ライフシフトプラットフォーム」に所属するメンバーのライフシフトの体験と未来をお届けします。

聞き手:小久保よしの イラスト:山口洋佑

坂本淳さんのプロフィール:
コミュニケーションデザインディレクター、スポーツソリューションディレクター。1990年、新卒で電通に入社。テレビ局でキャリアをスタート後、20代中盤で営業局へ異動。ブランデッドコンテンツ開発、ソリューションプランニング、コミュニケーションデザインなど、企画業務を中心にさまざまなプロジェクトを手掛ける。統合ソリューション局に異動後、ソリューションディレクターとして多くの企業を担当する。2020年末に電通を退社し、アイデアブティックSOOXを旗揚げし、独立。特技は写真とスペイン語。

どう生きていくかを考えていた矢先に、難病を発症

――1990年に電通に入社したそうですね。どうして広告会社に興味を持ったのですか?

坂本:僕は就職活動をする頃、自分が特定の分野のスペシャリストとして大成するイメージを全く持てなかったんです。ジェネラリストとしてしか社会人として通用しないだろう、と。そこで「おそらく自分に向いていそうだ」と思ったのが、広告会社と出版社でした。

たまたま同級生のお父さんが電通の営業部長だったので、紹介してもらって話を聞いたら、1989年のバブル期だったこともあって、さまざまな仕事が毎日のように舞い込んできているという話がとてもおもしろかったんです。

特に印象的だったのは、「この会社は入ってからの伸びしろが勝負」という言葉でした。電通の他の人からも話を聞くことができたんですが、電通に勤めている全員が電通をおもしろがっているように感じて、入社したんです。

仕事はテレビ局からスタートしました。テレビのCMは、スポットで販売したり、期間契約で販売したり します。特にスポットは、いろいろな条件を組み合わせてパズルのように構成されるので、代理店にこんな仕事もあるんだ!と驚きました。向き不向きがあると思いますが、僕は水が合って、楽しかったですね。

――その後、営業部へ異動したのですか。

坂本:そうです。食品メーカーの担当になって営業のやり方を覚えてからは、複数の企業を担当するようになり、ファッション業界、流通、そしてテーマパークなども担当しました。2003年に大手光学メーカーの担当になり、営業やソリューションディレクターとして、退職するまで継続して担当しました。これは、僕の電通人生で最も長い担当期間となり、その人脈は今に続く一生の財産になりました。

大手光学メーカーの担当になってすぐ、テレビのゴールデンタイムで一社提供の単発スペシャル番組をやるという、チャレンジングなプロジェクトを手掛けることになりました。よく2時間くらいの特別番組がありますよね。私はアカウントプランナーという立場で、アマゾン、エジプト、イタリアなど世界中から集めた面白い題材をもとに、番組を15本ほどつくりました。視聴者の知的好奇心を充足させることで企業のブランディングを促進する仕事で、ブランデッドコンテンツを一からプロデュースする、貴重な経験をさせていただきましたね。

あるとき、その大手光学メーカーの方から「カメラは車などと違ってライフインフラではない。それでも、カメラはやっぱり必要なんだ。 何のために必要かというと、エモーショナル・ベネフィットがあるから。その人の人生で一番感動的な瞬間を、もしかしたら私たちのカメラでおさめられるかもしれないと思うとワクワクする」と聞きました。

本当にその通りだなと思いましたね。「生業」って言いますけれど、自分が選んだ仕事にどれだけ価値があるか、多くの人が考えるものだと思います。仕事に一生懸命向き合って価値や意味を見出した人の言葉は重いし、人の心を打つことが多いのではないでしょうか。写真は小学生の頃からやっていたのですが、その概念に影響を受け、写真が人生通じての趣味になりました。

――とても充実した時間を過ごしていたのですね。

坂本:えぇ。でも2013年に、僕にとって大きな出来事がありました。一つは、とても親しかった後輩の男性が、30歳で脳出血により亡くなったんです。亡くなった当時は別のチームに異動していて直属の部下ではなかったのですが、僕のチームに新入社員として入ってきてくれて多くの仕事を共にした、優秀な人でした。

もう一つは、さまざまな事情で担当企業との向き合い方が変わったことです。それまでは「自分が支えるのが使命だ」と感じていたのですが、同世代のサポートに回ることが増え、今後のビジョンを描きにくくなり、次のキャリアを考えるきっかけになりました。

今日と同じ明日がやってくるわけではなく、「人はどういう運命になるか本当にわからない」と痛感しました。「自分のことは自分で守らねばならない」と、今後どう生きていくかを真剣に考えたんです。キャリアで言えば、会社と社員はイーブンの関係であるべきであって、会社を生き残らせるために自分が生き残れなかったら意味がないな、とも感じました。

――突然のお別れは、つらい出来事ですね。

坂本:これからどう生きていくかを考えていた矢先、2014年から僕の脚の動きがおかしくなってきたんです。つまずくことが増えて、大学病院で検査していただいた結果、神経のダメージにより思うように脚を動かせなくなる「遺伝性痙性対麻痺」という難病だと判明しました。これは根本的な治療法のない病気です。

「自分がやりたいと思った仕事を選択したい」と独立

――あまり聞いたことのない病名ですが、どのような症状や体調だったのでしょうか。

坂本:人によってさまざまな症状が現れますが、僕の場合は大きく脚を上げているつもりでも、ほんの少ししか上がっていないという感じでした。脳が体を動かす命令をすると、その部位に向かって信号が出て神経をつたっていくのですが、脚を動かす信号がうまく伝わらないという感じです。でも、当時はまだ自力で歩くことができたので、普通に毎日電車で通勤していました。 

毎日通勤できるとは言っても、以前と全く同じ感覚で生きていくことはできません。例えば、深夜に電話がきて「今、酒を飲んでいるから来い」と言われても、むずかしい。やはりそこは、自分のできることに合わせていかなければいけない。それが僕にとっての一つ目のライフシフトでした。2016年、よりブレインワーク中心のワークスタイルを求めて、マーケティング要素とクリエイティブ要素が合わさった統合ソリューション局に異動し、ソリューションプランナーになったんです。

――一つ目のライフシフト。病気になって、感じたことはありますか。

坂本:意外にも、人は自分の状況を受け入れる力があることです。以前の自分だったら、「ある日突然『あなたはもう一生走れません』などと言われたら、ショックを受けるに決まっているだろう」と想像していました。でも、病気になってみて分かったんです。人は、受け入れるしかないことについては、受け入れる能力を発揮できるんですよ。落ち込んでいる暇はなく、上向きのエネルギーが出てきました。

また、健常であることと障がいを持つことはシームレスにつながっている、とも感じました。海が、東京湾もニューカレドニアの澄んだ海も繋がっているように。でも世の中には、「あっち側とこっち側」といった認識のもとで表現されているものが多いと思うんですね。それに違和感をおぼえている障がい者は多いと思います。

例えば、ボッチャ(ヨーロッパで生まれたボールを投げるスポーツで、障がい者のために考案された。パラリンピックの正式種目にもなっている)の日本チームのコンセプトムービーで、「“障害者なのにすごい”、“大変だろうけど頑張って”。違う、私はただのアスリートだ。同情はいらない、歓声をくれ。」というコピーがありました。

僕はアスリートである彼らのような努力をしているわけではありませんので、そこまで強い言い方はできないけれども、意識としては「あっち側」ではないんです。もちろん、障がいは自覚していますが、自分という存在を形成している要素の一つに過ぎないと思っています。

――プランナーになってからはどのような仕事をしていたのですか。

坂本:2018年から、ちょうど東京オリンピックに向けてスポーツビジネスに注目が集まり、この分野にもソリューションチームが必要だということでスポーツ部門に移籍しました。ラグビーワールドカップの気運醸成プロジェクトにも関わり、単なるスポーツ協賛ではない新たな価値創造を手がけていました。

また病気の話になりますが、病気の診断を行うため、いわゆる遺伝子検査(ゲノム解析)を大学病院の意向で受けたところ、宿命的な遺伝子変異があると判明したんです。病気を起こす原因となる遺伝子の「変異」が発見されてはじめて正式な診断となるわけですが、それはつまり、生物としての「宿命」みたいなものを通告されるようなものなんです。自分の宿命的なものを示されて「どう生きるのか、試されている」という気持ちが強くなりました。

 私はこの遺伝子の「変異」によって体の自由を奪われる可能性を、今後ずっと抱えて生きていかなければなりません。幸い進行は少しずつで、発症後10年が経過した今でも杖を使って自由に行動することができます。このことがきっかけで「自分が本当にやりたいと思った仕事を選択したい」と考え、2020年末をもって電通を退社しました。二つ目のライフシフトです。

ライフシフトは、自分の生業をどう考えるかを突き詰めた選択の一つだと思います。趣味に打ち込む人生を好んで仕事の内容にはこだわらない人もいて、それは悪いことではないと思いますし、定年まで働いてシニア雇用で残る人も、異業種へ転職する人も否定しません。それぞれが、どうやってその人なりの生き方・働き方をつくっていくかという話ですから。

個人事業主を経て、SOOXを設立しました。社名は「Slightly Out Of Common Sense」の略で「常識から少し外れている」という意味。写真家のロバート・キャパ氏の著作『SLIGHTLY OUT OF FOCUS』へのオマージュでもあります。 

――「常識から少し外れている」ですか。

坂本:常識の少し外に目を向けると価値が生まれる、という思いをこめました。常識を当てはめるという方法論を疑って、別の価値を見つけるための知恵を提供したいと思っています。

現在は、企業や社団法人のマーコム(マーケティングコミュニケーションの略)部門のサポートを軸に、特に音楽、スポーツ、アートという3分野の仕事をしています。これらに、小学生の頃に苦手意識を持ってしまう人は多く、とてももったいないと思います。楽しむことだけ教えてくれたらいいのに、と真剣に思いますよね。特にアートは、そのせいでマーケットが小さくなってしまっていると痛感しています。

現在のクライアントの一社が、学校用のチョークの製造・販売で知られている日本理化学工業です。社員 90 人のうち7割が知的障害者という稀有な会社でもあります。ライスワックスを使った画材「kitpas(キットパス)」を世界中に発展させ、定着させていくことを今、使命としています。

音楽や色のすばらしさを伝える活動がしたい

――「ライフシフトプラットフォーム(LSP)」とはどう出会ったのですか?

坂本:当時所属していた電通の発表で知りました。それまでに何度か早期退職制度はありましたが、それぞれにルールが定められていました。LSPの仕組みでは、これまでやってきた分野の仕事を続けられ、新しい分野へのチャレンジもできます。一期生になりましたが、今までになかった選択肢を用意してもらったことに感謝していますし、LSPというこの船に乗ってよかったと思っています。

2024年、障がい者アーティストとトップスターが一つのステージで共演するというコンセプトのイベント「LIVE INCLUSIVE」を企画・創設しました。一般社団法人ソーシャルアートラボの方から「逗子市が行っている親子向けイベントの一環としていい企画はないか」と相談いただき、元々やってみたかった形の公演を提案し、実現したんです。LSPの仲間たちがスタッフやお客さんとして、たくさん会場に足を運んでくれました。

先ほど「健常であることと障がいを持つことはシームレスにつながっている」とお話ししましたが、「LIVE INCLUSIVE」で僕が伝えたかったのは、「全盲なのにピアノが弾けるなんてすごいでしょう?」といったことではないんです。全盲だからこそ出せるのかもしれない驚くほど繊細な音色と、最高の歌い手がコラボすると、本当に感動的な音楽ができあがります。今回、そういういくつものシーンを通じて、「音楽は健常や障がいを超えた存在なんだ」と確信しました。

――これからしてみたい仕事はありますか?

坂本:僕はノンバーバル(言語を使わない、非言語という意味)であることって、すごく大きな価値だと思っています。例えば、ユニクロの商品には言葉が必要ないじゃないですか。ノンバーバルだからうまくいきやすいんですよ。今、日本が世界的にすごく高く評価されている食の分野も、ある意味ノンバーバルの極みだと思います。

僕は、そのノンバーバルな価値を一番持っているものが色だと思っています。野望として、肌の色でも瞳の色でも髪の毛の色でもない、自分の心の中にあるアイデンティティカラーをさまざまなツールで表明できるビジネスができたら最高だなぁと思い、先に挙げた日本理化学工業に、こうした「自分の色を表現できるツール」みたいなものがつくれたらいいですよね、と持ち掛けて、研究していただいています。

例えば、敵対関係にある人物同士のアイデンティティカラーが一緒だったら、その関係は変わったりするんじゃないかとか、そんなことも妄想して、世界中の人が仲良くなれる可能性があると思っています。

――最後に、ライフシフトに悩んでいる人へのアドバイスをお願いします。

坂本:ライフシフトは、仕事を変えることではないと、僕は思うんです。同じ仕事を続けながらやり方を変えるのもライフシフトですよね。自分の中で大事にしているものがあれば、そこは何一つ変えなくていいと思っています。

ライフシフトに対して悩む人は、自分の外側に張り付いているものが邪魔をしているのではないかなと思うから、まずは自分の外側に張り付いているものを削ぎ落としていくことをおすすめします。その先に残るものが、きっと誰にでもあります。それだけを持って、それを一番活かせるステージを選ぶことがライフシフトではないでしょうか。それだけを持って、「次に何する?」という気持ちになると、わりとスッと見つかるのではないかと感じています。