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【熊谷優の見たい世界】54歳。僕はここから羽ばたいていく。新しい地平線の先に、農と共にある生き方を目指して。

ーーいまは、もう秋。人生100年を四季に例えるなら、50歳から75歳までが秋にあたる。これまでの成果である豊かな実りを味わい楽しむ、一番美しい時期といえるかもしれない。この季節を謳歌できずに冬を迎えるなんて嫌だ。これが熊谷優さんがニューホライズンコレクティブ合同会社(以下NH)の社内募集に手を挙げた最大の理由だった。

54歳。貸し農園で野菜を作りながら体のあちこちが痛いと言う。しかしそんな熊谷さんを「少年のようだ」と思った。電通時代後半は、苦手な数字と睨めっこする後方支援に近い仕事を、溜め息をつきながらこなしていた。いま、NHの新しい平原に飛び出し、目を輝かせて走る。彼の中の少年が息を吹き返したのだ。ーーー

▶︎この特集は、NHの人々が今何を思い、未来に何を描くのか、外部の人間から迫ったインタビューをお届けします。聞き手:本間美和 イラスト:山口洋佑

熊谷優(くまがいまさる)さんの仕事歴:
1990年バブル景気の中での入社。テレビ媒体(スポット)担当になるも独特の風土についていけず苦しんだ。5年で営業へ異動し、大手飲料会社、輸入車メーカーなどを担当。日本各地を飛び回り、充実した20年ほどを過ごした。50歳近くなった2013年、プロモーション系部署の業務管理部長に。事務系仕事が多くなり、自分に合わないと感じていたところにNHの募集があり、参加を決意した。

「あと6年やるのか…。つまらないな…」

ーーどのような経緯でNHに応募したのですか。

昨年の夏、NHのメンバー募集の社内告知がありました。いやぁ、すごく悩みましたよね。家族や同期に相談して、天秤にかけました。その時やっていた仕事をあと6年やるのか、NHという未知な乗り物に飛び乗るのか…。

そしたら、つまらなく思えてしまったんです。シャツを着て革靴を履いて電車に乗って、毎日パソコンに向かって仕事して、土日だけが楽しみでっていう、この生活を続けていくのが。あと6年?嫌だなって。ダメ社員の考え方で恥ずかしいんですけどね。

固定報酬への責任はあれど、自由を得られる。やりたい仕事を創っていける。それが自分にとって心地良いことだと思えたから、エイヤで応募しました。

人生の秋を謳歌せずに終わるなんて。

ーーちょっと意外でした。電通のマネージャー職なんて、私だったら手放したくない…。

これからは100年人生なんだろうなということは前から考えていました。25年区切りで四季に例えるとしたら、今は秋で、75歳からが冬。54歳で辞めれば秋はあと21年あります。でももし60歳まで働いてしまったら秋は15年しかない。

仮に80歳までしか生きないとしたら、20年刻みになって冬は60歳から80歳。定年まで働いていたら秋の時期をまるごと逃してしまう。

秋はこれまで頑張ってきた経験が豊かに実る時期。冬への備えでもあります。そんな1日1日が貴重な時期を、「しんどいなぁ、頑張らなくちゃなぁ」と思いながら働き続けるのはもったいないと思ったんです。

NHのアカデミー主催のセミナーで、予防医学の研究者である石川善樹さんの講演がありました。その中で人生の四季の話があり、私と同じことを考えてらっしゃると感動しました。石川さん曰く、秋は「自分で自分を扶養するシーズン」。つまり自分がやりたいことをやる時。夏は家族を扶養する時期なのだと。ぼんやり考えていたことが確信に変わった瞬間でした。

入社から5年はサイアクの時期。

ーー入社から退職されるまで、どのような電通時代を過ごされたのですか。順風満帆、というわけではなかった?

平成2年入社。当時の就職は売り手市場で、深く考えず電通に入ることができました。お給料が良かったからね。配属されたのはテレビスポット担当。テレビのスポットと言われる広告枠を買い付ける仕事です。電通最初の5年は、僕にとって最悪の時期でした

当時、そこは昔ながらの猛烈な体育会系の働き方。それはまあ平気だったんですが、辛かったのは、狭い世界での独特なお作法。「これが健全な経済活動だろうか」と疑問に思ってしまったんですね。仕事のための仕事、政治的動きが多く感じて、青かった僕にはリスペクトできなかった。まったく馴染めず、酒を飲まされながら頑張れと尻を叩かれながら、必死でついていった感じでした。本当にしんどかった。日本酒が完全に飲めなくなりました。

そのうち、落ち込んでいる僕に救いの手を差し延べてくれる先輩が何人か現れました。今も尊敬する大好きな人たちです。ある先輩は休日、山梨の蕎麦屋に連れ出してくれました。蕎麦を待つ間、だし巻き卵と日本酒が出てきた。「いや僕日本酒飲めないんですよ」「まあ、飲んでみな」。飲めたんですね。その時日本酒を初めて美味しいと思いました。

サイコウだった営業職。そしてまた試練…

ーー右も左も分からない新入社員で入社して、それは苦労されましたね。苗に風土が合わなかったというか…。その後熊谷さんは開花したのでしょうか。

そうやって、いい先輩に救われたりしながらも、やっぱり当時のあの文化は僕には合わなかった。5年間頑張ったけど、熊谷には合わないと思われたのでしょうね、営業職に異動になりました

飲料会社を担当し、地方にも拠点があるので地方支社の広告の手伝いをしました。出張が多くて、北海道や東北、九州にも行きました。最高に面白かった。地元の人とコミニケーションをとりながらの仕事でね、地方の人の温かさ、本物を見分ける嗅覚、頭を下げて無理をお願いしたときにお前が言うならと言ってのんでくれたり、熱い人情を感じました。

営業はめちゃくちゃ楽しかった。こんなに楽しい仕事はないなと思ったほどです。結局20年くらいやりました。幸せな時代でした。

それから40代中盤にさしかかり、そろそろマネージャー職ができるようにならないとと思って、その時ポストが開いていたプロモーション系の部署に移りました。はじめは現場だったのですが、途中から事務仕事専門の業務管理部となりました。業務管理部は現場の後方支援で、それはそれですごくやりがいのある仕事なのですが、徐々に気持ちが落ちていって。7年くらいやった時、NHの話があったんですね。それで、この仕事をあと6年やるなんて嫌だなと思ってしまったわけです。

取り組みたいのは、生きる根源的なこと。

ーーNHに出るべくして出た、歴史があったのですね。では今後のことを伺います。熊谷さんは退職前から農分野に関心があり、自身も畑を耕してきたそうですね。


畑は5年前からやっています。都内の自宅から車で一時間ほどの千葉の貸し農園に、毎週末通って野菜を作ってきました。NHに入ったとき、「これで畑に行きたい時に行ける!」ってことが正直、一番嬉しかった。会社員時代はやはりそんなに自由にはできなかったですから。

働いていると気持ちの浮き沈みってあるじゃないですか。僕は沈んだとき、昔からなぜか農業のことや森のこと、土のことを勉強していると気持ちが落ち着いた。典型的なベッドタウンの相模原育ちなんですけどね。なぜか北海道の広い大地や、深い森や川、農村集落に惹かれる気持ちがずっとあったんです。そこに何かとても大事なものがある、僕の根源があると感じていたからかもしれません。

NHの中で「農サークル」を作ったら、30人ぐらいが参加してくれました。農家の跡継ぎの人、家庭菜園をしている人、パーマカルチャーに興味がある人、有機農法の人や慣行農法の人、様々です。彼らと一緒に農に関わるプロジェクトを起こしていきたいとワクワクしています。

みんなが土で手を汚すようになったら変わる。

ーー畑を耕したいと聞いて、「悠々自適の農ライフ?」なんてよぎってしまったけど、違うんですね。私を含め多くの社会人は、一次産業や耕作放棄地への問題意識はありつつ、自分が食べる物の話なのに他人任せにしているのが実情で、熊谷さんはそこに向き合いたいと。

もちろん、農業も本気でやりたいし、山の中で暮らしたい。でも僕がどこかの耕作放棄地に入植してしまえば、そのことだけしかできません。これからやりたいのは、全国を農をテーマに巡りながら、さまざまな問題への解決策を仲間と共につくっていくことです。

日本の生活者みんなが何らかの形で農に関心を持ち、農と関わる仕組みが作れれば、きっと変わっていくと思うから。貸し農園「マイファーム」を立ち上げた西辻一真さんや「タントスープ」の大西ちあきさんのように、若い人たちから新しい動きが出ている。彼らのような人も応援したいです。

これまでの大規模農業、大量消費で完成したのが今の社会。でももう1つの確かな流れが生まれていて、気づいた人からそちらに行っているように思います。私たち皆に染み付いた便利さへの慣れや、産業をめぐる硬直したシステムなど、立ちはだかるものはあれど、このままでは日本の食糧はヤバいという危機感と哺乳類の本能が求めるものを原動力に、あらゆるやり方で、いろんな人が知恵を出していけたら。きっと、ただ消費していただけの人もいずれ加わって動き出し、大きなうねりとなるはずです。果てしない夢のように見えるけど、少しでも進んでいればいつか変わる。僕は希望を持っているんです。

シンプルに思うんですよ。日本人全員が何らかの形で農に関われたらいいなって。ベランダ菜園でもいいから、食べ物の生産に関わることをする。土で手を汚す。そうなったら問題意識が生まれる。選ぶ物が変わってくる。でも、難しいことを全部無視したとしても、単純に楽しいんですよね。自然の中でワークするって。もともと自然の中で生きてきた動物としての原点がある気がするんです。癒されたり元気になるのはそういうことかなと。

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僕はここで力をつけて、羽ばたいていく。

ーーああ今、熊谷さんがあと6年できる管理職を辞してNHに飛び移った直感に、勝手ながら感謝したくなりました。熊谷さんの熱は、この世界では小さな火かもしれない。でもこれを希望と言わずなんと言う?と思ってしまいました。

きっとNHからしたら、僕は耕作放棄地と同じなんだろうなと。なんとかしてあげなきゃという存在。でも、だからこそ、僕みたいなおじさんがNHから飛躍していく様を見せたいんですよ。

この2年、3年をどう過ごすかが1番大事だと思います。電通を辞めているのに結局電通と同じようなことしかできないのではだめだ。さらに力をつけて、大きく飛んで、新しい地平線を見ないと

食べ物の生産者と消費者、都市と地方の役割分担をもっとゆるくすること。土地に根差した生活文化である、農業漁業と料理と食事の重要性を見直すこと。過疎地と耕作放棄地。土中環境とコンクリートと治水政策。パーマカルチャー。小規模農家さんの知恵を集約すること。若い世代がもっと気負わず農業を学べる橋渡し。勉強したいこと、取り組みたいことが山のようにあります。

なぜだろう。力が湧いてくる。

ーー話す表情が、自由研究に嬉々として没頭する少年のようで。54歳の少年がいま、やっと解き放たれたんだなと感じました。熊谷さんがこれから学び、動き、形づくっていくものが楽しみです。

原理原則は、「やりたい事をやる。やりたくないことはしない」。けれど、それをするために必要ならば、たとえ自分の不得意の領域でもやってやるぞと思っています。それは、電通の後半、やりたくない仕事を不平を言いながらやっていたときの気持ちとはまったく違うものです。そんな自分の変化が嬉しい。

NHに集まったメンバーが素晴らしくてね。力を合わせたいし、役立ちたいって心から思います。この前、畑をいじりながらふとこんなイメージが浮かびました。「菜園でイモを植えました。これで1年間イモを買わずに済みます。でも人にあげてしまうと10ヵ月分になって2ヶ月分足りなくなります」。

今までの自分なら、できるだけ人にあげたくなかった。それか、あげてしまって恨めしく思いつつ我慢した。でも今は、その分自分の収量をあげようと思う。広さか、農法か、栄養か。僕の作ったものを人におすそ分けするために工夫をしてみよう。よし、いっちょやるか。この歳になって?って言われるかもしれないけど、まだまだ伸びるとしか思えない。力が勝手にふつふつと湧きあがってくるんです。

New Horizon Collective WEBSITE

取材・構成・文 = 本間美和
フリーランス編集・ライター
1976年生まれ。日立製作所の営業から転職、リクルート「ゼクシィ」、講談社「FRaU」の編集者を経て、夫と2年間の世界旅へ。帰国後はNPOを立ち上げ「東北復興新聞」を発行。現在は長野と京都の二拠点生活で2児の母。大人な母のためのメディア「hahaha!」編集長。著書に『ソーシャルトラベル』『3Years』。
イラスト=山口洋佑
イラストレーター
東京都生まれ。雑誌・書籍、音楽、ファッション、広告、パッケージなどの様々な媒体で活動。CITIZENソーシャルグッドキャンペーン「New TiMe, New Me」、FRaU SDGs MOOK 、『魔女街道の旅』(著・西村佑子 山と渓谷社)、絵本『ライオンごうのたび』(著・もりおかよしゆき / やまぐちようすけ あかね書房)、テレビ東京「シナぷしゅ みらいばなし」などを手がける。各地で個展なども開催。yosukeyamaguchi423.tumblr.com/

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