【棚橋芳雄の見たい世界】断れない男のたどり着いた仕事観。心地よい空気の中から、誰かが答え出す、それでいい。
ファッションとグラフィックデザインの熱にうかされた高校生時代。広告年鑑をボロボロになるまで読み、広告業界のスターたちを追いかけた大学時代。
憧れてやまなかった広告の世界に身を置き、夢にまで見た広告賞を取り、絶頂の27歳から、50歳になる今日まで、ゆっくりと自分のスタイルを創ってきた。自信なんてないし、今だにいつも緊張する。頼まれると断れない、ノーと言えない日本人ですよと頭をかきながら笑う。
何を聞いてもふわりと謙遜する彼の、これまでの中に育まれたものは何なのか。
時代を読み「風に乗る人」ではない。心の中に心地よい「風が吹いている」人だ。
その心地よい風に誘われ、人は彼の周りに引き寄せられ、声をかける。そこにいるだけで場が和やかに温まる。
「いい空気感をつくることで誰かが力を発揮する」というスタンスが、力を抜ききった末にたどり着いた、棚橋流の働き方だった。
社会課題の解決や、人生の使命と言われてもピンとこない。ただ、どうしようもなく好きな気持ちと、誰かの夢や本当に価値のあるものを、伝えたい・残したい気持ちが彼を動かしている。
そして根底にあるのは、何をやるか・どうやるかではなく、自分が「どうあるか」。
そうか、棚橋さんはすでに「見たい世界」の中にいるのかもしれないな。
▶この特集【NH230人が見たい世界】は、NHの人々が何を今思い、何を未来に描くのか、外部の人間から迫ったインタビューをお届けします。
聞き手:本間美和 イラスト:山口洋佑
広告オタクのサクセスストーリー
ーー大手クライアントのCMを手掛けるなど、アートディレクターとして長年活躍された棚橋さんですが、そもそもどうして電通に?
中学生の時は、ファッション雑誌に夢中になり、ファッションデザイナーになりたいなと淡く夢見てたんですけど、高校に入って見つけたのが、グラフィックデザイナーという仕事でした。岐阜のパルコで、「日本グラフィック展」を見たときのワクワクは忘れられません。
意を決して美大を目指すことを親に話しました。高校は進学校だったし、塾にも通わせてもらってたし、親の期待に対しての裏切りなんだろうなと思いつつ、初めて自分で決断した大きな出来事でしたね。
でもそのあとです。人生の転機は。忘れもしない、高校3年の11月でした。
本屋で立ち読みした「コマーシャルフォト」に掲載されていた、としまえんの新聞広告を見つけたときです。
1年間の広告グラフィックをまとめてベストテンを発表する企画があるんですが、それは90年の号でした。ページ左側に、一位「史上最低の遊園地」とあって。衝撃でしたね。博報堂の大貫卓也さんの作品でした。
グラフィックデザインは、アート側というか、見た人の好きか嫌いかがまずあって、意味を深く知ると「なるほど」となるものも多い。でも広告は、後から意味が分かったのでは人に届かない。人を喜ばせようとか、人にわかりやすくものを伝えようという姿勢と、伝える手法に感銘を受けたんだと思います。
これが、グラフィックデザイナーじゃなくて、広告のアートディレクターになろうと思った瞬間でした。広告って、なんて面白いことができるんだろう、こんなにも人の心を動かすものなのかって。
ーーそれで予定通り美大へ?
美大に行きたいと言ったとき、私立に行かせるお金はないと言われてしまって。それで友達が受けると言う筑波大を調べてみたら、芸術専門学群という、美術の先生になる人向けの学部を見つけました。公立の美大は全部落ちてそこに受かったので、仮面浪人をして美大に行くのもいいしと思い進みました。でも初めての一人暮らしが楽しすぎて、結局ずっといたんですけどね。
ーー楽しかった大学時代、広告への熱は冷めないままでしたか?
冷めないどころか、完全に広告オタクでしたね。TCC年鑑とADC年鑑という、年一回出る、僕にとって聖書のような広告年鑑があるんですけど、読み込んでボロボロで、どこに何があるかページを暗記してました。それくらいの広告オタク。
ADC(東京アートディレクターズクラブ)賞のトークショーには筑波から車を飛ばしていつも行ってました。新橋のリクルートの1階で広告の人たちのお話を聞くのが面白くて。
特に博報堂の大貫卓也さんに憧れました。今でも一番大事にしてる本は『大貫卓也全仕事』です。広告の面白さの全てが詰まっていると思います。
就職活動では、僕、電通以外は興味がなかったんですよ。大貫さんがいた博報堂もよかったんだけど、広告オタクとしては、佐々木宏さん、佐藤雅彦さん、水口克夫さんといったスターのたくさんいる電通がいいなと。でも最終試験で落ちてしまって、就職浪人やって翌年受かりました。
ーー電通一本って…かなり捨て身ですね。
ですよね。でも電通には絶対縁があると信じてたんで。
電通に入ってからですよ、苦しかったのは。「こんなに面白い人たちがこんなにいるんだ!」「デザインうまくてプレゼンうまくて、天才かよ」って、先輩方の圧倒的な凄さを知れば知るほど、自分の未熟さに毎日ヘコんでいました。
あ、一度だけ自信を持った時期がありました。それこそ毎年大貫さんがグランプリだったADC賞をいつか絶対取るぞと目指していたんですが、27歳のときたまたま取っちゃったんですね。賞を取って、俺ってすげえじゃん、俺の時代が来たと思ったんですけどね。その感覚は1年くらいで終わりました。
それ以降はどんな仕事でも悩んでばかりだし、面白いこと考えられないじゃんと落ち込むばかり。そして世の中に出た瞬間に、こんなものでよかったのかなとドキドキしてしまう。いまだにそうですね。
40代にして育つ
ーー広告業界のスターとして生きる道ではない、別の道を行ったってことですかね。己の道。
そうですね。天才じゃないと分かってから、必死に仕事をしながら多くを学ばせてもらいました。
僕の人生の大きな転機の一つは間違いなく、親になったことです。
40代に入ってから授かったので、遅かったんですけど、価値観が激変しましたよね。
社会ではだいたい経験を積んできたつもりの年齢で、子育てというまったく想像つかないことと向き合わなくちゃいけない日々。正論も通じないし、明るい気持ちで向き合わないと身が持たない。ものすごい修行でしたよ。
NH立ち上げの話を聞いたのは、娘が4歳のときでした。
これから先を考えたとき、子供ができたからこそ、もちろん安定も大事だと思いました。でも、苦労するかもしれないけどチャンスを求めて頑張るパパを見せたい、一緒に成長したいと思ったんです。
そのまま電通にいたら彼女が思春期のときに定年を迎えることになる。定年という年齢で区切られるのではなくて、自分の意志で決断したり諦めたりするところを見せたいなと。それで、70歳になっても何だか好きなことをやってるな、楽しそうだなって見せられたらなと。娘にも好きなことして生きてほしいしね。
だからNHに移ることを決められたのは、背中を押してくれた妻と娘のおかげですね。
ーーいい選択だったんですね。広告が好きで一番好きな電通に入ったわけだから、名残惜しさもあったでしょうに。
ありましたよ。特に、辞める直前の部がとてもよかったんでね。
デジタルクリエイティブ部ってところで、局長に頼まれて部長になることを引き受けてしまったんですけど。メンバーと試行錯誤しながら一緒に部をつくっていく感じで、すごく楽しかった。だから彼らを置いて行くのが一番の心残りではありました。
ーーご自身がやってきたTHE・広告とはやはり違う領域だったんですか。
それまで僕がやってきたのは国内向けのCMとグラフィック表現だったんですが、この部署ではTwitterやTiktokのキャンペーンなど、今まで考えたことのない領域で、そのへんに詳しい子ばかりが揃っていました。
僕は全然わからないから、どうしよう、勉強しなきゃと焦ったんだけど、やってみて分かったのは、世の中の人に若い部員たちを見てもらえるチャンスをつくるのが部長の役割かなと。
自分がやっている仕事にデジタルキャンペーンをくっつけることで仕事を持ってきたら、彼らが考える場所ができるじゃないですか。
教えることだけが上司じゃないんだと気がついたら楽になりました。活躍の場を渡せば、彼らはスキルがあるからできる。企画を通すところや、現場を仕切るところを見せることはきっとプラスになる。
人を育てる、ではなく、一緒に育っていく。子育てでも同じですよね、教えられることの方が多いというか。いい2年間で、ますます丸くなったように思います。
たどり着いた仕事スタイル
ーー40代での変化と学びを柔軟に吸収して、NHへ。どんどん肩の力が抜けていった感じですか。
仕事で多くの修羅場をくぐり抜けながら学んだんです、「悩みすぎないことだな」と。極論、生きていれば丸儲け。どうせ生きるなら腹を立てるより楽しい方がいい。なるべく明るく、健やかな心でいようって。
前向きに明るくしてれば、いいムードができてきて、結果うまくまわるようになりますから。
例えば1つの仕事でも、クライアントの思いを真正面から否定して自分の意見を通すよりも、受け止めつつうまく流す方が結局やりたいことに近づけると知りました。その采配が僕の特技?武器?になっていったのかもしれない。
結果、繰り返しお声がけいただいて、どのクライアントともいい関係でお仕事させてもらえるようになりました。前向きに捉えてくれるからこの人いいな、また頼もうと思ってもらえるのかもしれないですね。
ーー柔よく剛を制す。または柳のようなしなやかさ。または「北風と太陽」の太陽。朗らかな空気感がいいものをつくることに繋がるってことですね。
まさに。グラフィックデザインみたいな自己主張の強いものじゃなく、広告という「クライアントと見る人の間にあるもの」は、関わってる人たちみんなが幸せならいいものができるんじゃないかと思うんです。
商品が売れると、クライアントが笑顔になる。そうすると広告を作る側もやりやすくなって笑顔が増える。いい雰囲気だといいアイデアが出て、いいものができる。いい広告で商品が売れる。そういういい循環が生まれる仕事が最高だなと思います。
つまりは広告オタクなんで。どうしようもなく好きなんですよ広告が。ただただ、ずっとやっていたいです。
でも1人じゃなく、できるだけチームでやりたいな。
営業の子の一言でもいいし、きっかけは「誰か」が持っているんです。ポロっと出やすい雰囲気を作ってそれに頼る。これが僕がたどり着いた一番の方法です。
ーー人と一緒に。チームで。いいですね。棚橋さんて、居るとほっとするってよく言われませんか?癒し系というか。
はい。優しい人って言われて結局捨てられるタイプの男です(笑)。
大昔、「優しいって、モテる要素じゃないからね」って女の子に言われて、なるほどと思った記憶があります。
「チームで」とか言ってますけど、実は人見知りだし、大勢の前で話すのも苦手です。今、水曜の朝の定例で、200人以上を相手に一言話すんですけど、何度やっても緊張するし全然うまく話せない。
電通時代からなんですが、頼まれると断れないんですよね。
もっと言うと、子供の頃も、学級委員とか生徒会とか、部活の部長とかよくやっていたんだけど、こんな人見知りで人前に出たくないのになぜやることになったのか、謎なんですよ。立候補した記憶はないですし。
ーーなぜ断れないんですかね。
「あ、こうしたらよくなるかも?」という自分なりの解決方法が、断る前に思いついちゃうっていうのもあるし、「断ったら誰がやるんだろう。その人が大変だろうな」とも考えてしまって。それで「これも縁だしな」と最終的には思っちゃう感じです。
頼まれて今やっているNHの広報の仕事だって、絶対僕よりいい人いるはずだと思ってます。そう伝えてるんだけどね。でも僕でと言ってくれるからついやってしまう。「NOと言えない日本人」の代表なんでしょうね。
これからやりたいのは「残す・伝える」
ーーいま、新しくチャレンジしたいと思っていることはありますか?
あります。お鮨が好きで、それに纏わる仕事をしてみたいと、かなり前から思ってきました。
特に「握り」という素晴らしい技術は、名人がこの世を去ってしまうと残らない。なんとか残し伝える方法はないかなって。
一番のきっかけは、27歳のとき、当時上野毛にあった「あら輝」というお店でお鮨を食べて、なんだこれは!と衝撃を受けたことです。
ちなみに「あら輝」はその後三つ星を取り、それを捨ててロンドンに行って2年目から三つ星。それを捨てて今は香港っていう、伝説の鮨屋って言ってもいい店。
僕が訪ねた日、ちょうど最後の客だったからか、大将の荒木さんとゆっくりお話させてもらったことが僕の鮨人生の始まりでした。
名人芸とも言える、その手の中に何があるのか。もしこれを残していけたら凄いことだぞと思い、ここ4年くらい技術のデータ化の研究をしています。グローブをしたらどうかとか、センサーをつけたらどうかとか、若いデジタルの子とかセンサーの会社とかと一緒に。
ーー誰でも握れるようにしたいということですか?
こうしたらできるというロジックが解説できたら、海外の人も真似できるかもしれないし、一人ひとり弟子を育てるしかなかった鮨の一流の技が、この世界に残っていくかもしれない。僕はこの世界においしいお鮨を残したいんですきっと。
手の中のマジック。陶芸とか伝統工芸、あらゆる職人技がそうですよね。なぜこの形が生まれるのかが明らかにできたらものすごい価値なんじゃないかと思っています。
ーーマス広告をドンとやってきた時代から、美味しいお鮨を残すにはという研ぎ済まされた価値へ。知ってもらう・買ってもらうの「その先」に惹かれているんですね。
確かに。ただの広告表現ではなく、このブランドがどう残るか、この商品がどう育つかを考えて企画や表現を考えるようになったのは歳をとってからですね。
「この商品どうしたらいい?」という悩みに寄り添い、良さをわかりやすく楽しく届ける表現を考える、そんなお手伝いをずっとやっていけたらいいなと思います。
それは規模が大きいことでも、小さなことでも。
この前は築地のある鮨屋の名刺を制作したけど、お店に来た人が名刺を撮ってSNSで発信してたりするのを見ると、たくさん話し合って良いものを作ってよかったなと思いました。
ーー憧れを追いかけて広告業界に入り、自分なりの世界を極め、50歳を前にデジタルやNHという新しい世界と出会い……。今のステージで、これから先をどう見ていますか。
半分は、好きな広告をとにかくやっていたいです。CMだけじゃなくて、パッケージでも人の名刺でも。人がより良くなるようなものをつくる仕事として。
もう1つの面は、好きなことをビジネスにすることをやっていきたい。お寿司を残すとか、僕が好きなウイスキーの魅力を若い人に紹介するとかがそうですね。
この両面があれば僕は楽しく生きていけるなと思います。楽しく生きたいです。それだけでいい。