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【田代浩史の見たい世界】老人、子供、障害者、健常者、バリバリ、のんびり。境界線が曖昧で、どんな人も生きやすい社会がいい。

ーー新しく作った田代さんの名刺の裏を見ると、キャッチコピーが入っていた。

「あなたがいるから私がいきる。違いがあるから新しい何かが生まれる。デザインの届きにくいところにこそ、豊かさへのヒントがある」。

照れ笑いしながら、こういうことを今後は大事にやろうと決めたんです、と言う。

電通クリエイティブ36年のデザイナーが、心の浮き沈みに苛まれながら、もがきながら、岸に流れ着くようにしてたどり着いたのが、多様な他者への温かな眼差しだった。そのことにちょっと驚き、ちょっとグッときた。

マイノリティという言葉は好きじゃない。一人ひとりが自分らしさを失わないように、さまざまな人の中でちゃんと立っていられるように。そんな世の中をデザインしたい。

そう語る田代さんは今、ゆっくりと少しずつ、でも確かに、世界を温め始めたのだ。ーー


▶︎この特集は、NHの人々が今何を思い、未来に何を描くのか、外部の人間から迫ったインタビューをお届けします。聞き手:本間美和 イラスト:山口洋佑

田代浩史(たしろ・ひろし)さんの仕事歴:
1961年台東区浅草橋で生まれ。画家を志していた高校時代にデザインに出会い東京藝術大学へ。1984年電通入社。アートディレクター、クリエイティブディレクターを経て、50代後半に業務統括部で人事マネージメントを行う。後に「電通ダイバーシティ・ラボ」でユニバーサルデザインに携わる。2020年退職し、翌年からNHへ。個人事業主として田代デザインスタジオを立ち上げる。

バリバリとウジウジを行き来した電通時代。

ーー84年入社、30年以上クリエイティブ担当。時代的にも勢いがあって、さぞ華やかでエキサイティングな日々を送られたのだろうと想像しましたが、実際は試練が多かったとか。

広告クリエイティブの仕事は、先輩たちのすごいパワーがあって突き動かされていた感じでした。常に新しい表現を模索して面白かったし、競ったり賞を獲ったりで刺激的で。でもその間、プライベートの問題やらいろいろあって、ちょっと心を病んでしまった。以降、復活してはまた落ち込んでの繰り返しだった気がします。

クリエイティブディレクターになった後の48歳頃、新設されたソリューションクリエイティブ室という部署で部長を任されて。これがまた厳しい期間でした。従来の4マス中心じゃない広告に取り組もうという、やりがいのある新部署だったんですが、当時マス広告をメインに動いていた電通としては、儲かりにくいからか、なかなか仕事が来なかった。

だから自分たちで仕事をつくって、成果も出して頑張りましたよ。でも現場からは面白みや待遇への不満、上からは数字という今まで僕らの文化になかったものを求められる。その板挟みになっちゃって苦しかったです。

4年後、またクリエイティブ部署に戻ると、もう仕事が回ってこない状況でした。自分がちゃんと売れっ子になってなかったからいけなかったんですけどね…(笑)。

多様性を考えるラボという居場所。

ーーずっとメインストリームを歩んでいたはずなのに、気付いたら居場所がなくなってしまった…。それで田代さんはどうしたのですか。

少しでも何かの役に立ちたかったんでしょうね。当時すごく大変そうだった業務統括部に移って手伝うことにしたんですが…、やってみたら事務作業はまったく向いてなかった。また精神的に落ち込んでしまって、3ヶ月休職しました。

僕は手で何か描いていないとダメだったんですね。高校生の頃は絵描きになりたかったけど、食うためにはデザインに行けと先生に言われてデザイナーになった人間だから。絵を描いていないと酸欠の魚みたいになっちゃうと知ったんです。

休職から復帰したとき、無理しないで好きなことやってていいよと言われ、「電通ダイバーシティ・ラボ」の仕事をしました。多世代、多様性をテーマにしたプロジェクトを興す、自由で創発的な場でした。

障害を持った人や高齢者のことに思いを馳せるのはすごく好きでした。ユニバーサルデザインの「みんなの文字」や、アレルギーを持つ人のためのUDピクトも作りました。夢中になりました。居場所を与えてくれたんだと思います。電通と仲間が。

原体験は少年時代に。

ーーさまざまな苦労を経て、やっと見つけた自分らしい仕事が、社会をよくするための活動だった…。そのような志向の起源になるような体験が、何かあったのでしょうか。

うーん、そういえば、小学生の頃から地域の「子ども会」の活動をしていました。お寺に集まって、遊んでもらって、歳が上になったら遊んであげて。社会奉仕活動もいろいろやりました。少年時代に町のいろんな世代、いろんな人たちと触れ合った思い出が残っていますね。

中学生のときだったか、地域の障害を持った子供の運動会をお手伝いに行ったんですが、その光景に圧倒されて、びっくりしちゃったんですね。障害がある人って、こんなにたくさんいるんだ。普段見ないのは何でだろうって。

困っている人、弱い人を見ると手伝いたくなってしまう。そういう性分なのかなと思っていたけど、これが原体験みたいなものだったのかも知れないですね。

電通の話に戻すと、それから59歳、定年まで11ヵ月というタイミングで退職してNHへ移りました。踏み切れなかった僕に、後輩が「田代さんのためにあるような仕組みですよ!」と背中を押してくれたおかげです。

NHに属して今、「半独立」という感じかな。独立した仕事と、組織の仲間とのプロジェクト、両方できるのがありがたいです。電通ダイバーシティラボのお仕事も業務委託で続けているし、NHの仲間からの依頼でロゴをつくったり、作品制作に取り組んだり。

あとは、DTPの勉強も始めました。これまで広告のアートディレクターは、ラフを描いてイメージを伝えるまでだったけど、自分で入稿データまで作れるようになりたいと思って。検定にも挑戦しますよ。

サビを入れて粋な色に染まる。

ーー何だか楽しそうですね。江戸の文化や「粋(いき)」にも興味があるとか?

友人がおすすめしていた九鬼周造さんの本『「いき」の構造』を読んで刺激を受けました。粋と野暮、渋みと甘み、地味と派手、江戸の庶民感覚をチャート図で紹介していたりして面白かった。とくに色の話が興味深くて。そうそう、江戸時代の「粋な色」って何だったと思いますか?

答えは、1番はねずみ色、2番は藍色、3番は茶色。「四十八茶 百鼠」っていう言葉があって、贅沢の禁止令が出された江戸時代後期の庶民は、ねずみ色に100通りの名前がつくほど、渋い色の微妙なニュアンスを楽しんでいたそうです。

それから自分で藍染めや草木染めをして作品を作ったりしています。グレーって、いきなりグレーには染まらないんですよ。一度茶色く染めて、鉄の媒染液を入れる。つまりサビに触れさせると化学反応でグレーになるんです。染色、奥深くて面白いですよ。

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デザインが届かなかったところにデザインを

ーーグレーの話、まるで田代さん自身のお話のように聞こえました。傷ついたから、優しくなれる。孤独だったから、寂しい人に寄り添える。苦々しかったサビのような経験を経て、新しい発色を始めた田代さんだからこその、表現やデザインがあるんですねきっと。

そういうことなのかな。だとしたら嬉しいです。

昔のキラキラ、バリバリの自分には戻れないけど、それでいいんじゃないかなと思っている自分がいて。強くなったというより、柔らかくなってるかな。

仕事も、もう大きな広告のキャンペーンをやったりすることは、立場的にも体力的にもできないけど、むしろ、今までデザインが届かなかったところに僕の力が加わることで面白いことができれば、そうして新しい世界が創れれば、それが豊かさにつながるかもしれない。そんなふうに思っています。

自分のデザインをやりたい気持ちと、社会を良くしたい気持ち。これらがまだ、ぴったり1つにはなっていないんだけど、最終的にはこの2つが合わさったところに、僕の目指す将来があるのかもしれないなと。そういう意味でも、NHは焦らず自分のペースで仕事に向き合えるから、前向きな気持ちでいられます。

大家族みたいな温かい場所をつくりたい。

ーー実現したい未来の絵。田代さんはどう描きますか。

ひとつ、憧れている施設があって、愛知県の長久手というところにある「ゴジカラ村」。高齢者施設、幼稚園、保育園、看護学校、いろんな施設が山の中にまとまっていて、デイケアや幼稚園の利用者やスタッフもあわせると1日1000人以上が共同生活する集落です。

要介護の高齢者とファミリー世代が同居して、ちょっとしたお世話をする代わりに家賃が安くなってたり、デイケア施設が大きな古民家で、幼稚園の隣にあって毎日園児が遊びに来たり。僕が未来に入るとしても、病院みたいな所じゃなくてそんな風通しのよいところでお茶のめたり子供と遊んだりできたらいいなと。

ゴジカラ村のように、いろんな世代の人が大家族みたいに、豊かに暮らしていける場所が理想だな。僕自身も東京の浅草橋生まれで、4人兄弟と両親、ばあちゃんも叔母さんもいた大家族暮らしでした。下町の風情、銭湯の行き帰りの風景と共に、心に残っています。

大家族の良かったところは、いいところもダメなところも「わかってくれてる」感じ。今、逗子にある知的障害の子の放課後デイサービスを見学したりしています。僕も温かい場所を作りたいんです。障害者も健常者も、しょんぼりした人も元気な人も普通に暮らせる場所を。

境界線はもっと曖昧でいい。

ーーコロナ禍、エッセンシャルワーカーさんへの「ありがとう」を、郵便屋さんや宅配業者さんの人文字で描いたイラスト作品を拝見しました。田代さんはデザインを通じて世の中を温めていく人なのだなと感じました。

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ありがとうございます。
芸大生のとき、いつも満員になる名物授業がありました。それは保健の授業で、三木さんという先生が言った忘れられない言葉があります。「すべての人間は、身体障害者であり、すべての人間は精神障害者である」

完璧な人間はいない。健常だとか、障害だとかの線をどこかで引かなくちゃいけない世の中になってるけど、そのラインはもっと緩やかにしておいた方がいいなと思うんです。みんなのために。

これから、やりたいことも学びたいこともたくさんあります。NHでは、今までやってきたことのコアを使うのはいいんだけど、今までと同じことをやっててはダメな気がしていて。土俵を変えるとか、クライアントのためだけに使っていた脳を、社会の課題解決のために使うとか、自分の技術の使い道を変えていけばいいんじゃないかと思います。

最近、「嬉しい」と「楽しい」の違いを考えたりしてて。どっちも好きだけど、今は「嬉しい」の方が上位になってる気がします。嬉しいって相手があってのことじゃないですか。相手が喜ぶから嬉しい。楽しいだと少し快楽的にもなり得るからね。

どうなったら成功かって? きっと僕が生き生きしていればいいんじゃないかな。そのためには、誰かの喜びや社会の豊かさのお手伝い、それをデザインを通してやっている、この2つが1つになっていること。そして気持ちが、楽しいだけじゃなく嬉しかったら、金メダルだな。そんなふうに、今、思えました(笑)。


New Horizon Collective WEBSITE

取材・構成・文 = 本間美和
フリーランス編集・ライター
1976年生まれ。日立製作所の営業から転職、リクルート「ゼクシィ」、講談社「FRaU」の編集者を経て、夫と2年間の世界旅へ。帰国後はNPOを立ち上げ「東北復興新聞」を発行。現在は長野と京都の二拠点生活で2児の母。大人な母のためのメディア「hahaha!」編集長。著書に『ソーシャルトラベル』『3Years』。
イラスト=山口洋佑
イラストレーター
東京都生まれ。雑誌・書籍、音楽、ファッション、広告、パッケージなどの様々な媒体で活動。CITIZENソーシャルグッドキャンペーン「New TiMe, New Me」、FRaU SDGs MOOK 、『魔女街道の旅』(著・西村佑子 山と渓谷社)、絵本『ライオンごうのたび』(著・もりおかよしゆき / やまぐちようすけ あかね書房)、テレビ東京「シナぷしゅ みらいばなし」などを手がける。各地で個展なども開催。yosukeyamaguchi423.tumblr.com/