営業としてキャリアを積み40代から海外駐在、50代の壁で大きな方向転換を。魅力的な人と、心に刻まれた言葉たちが、いつも背中を押してくれた――田邉守さん
営業一筋で約30年。20〜30代で大手クライアントを一手に引き受け、40代では主に中国に駐在し新たな道を開拓。
田邉さんの会社員生活は活気に満ちていて、さまざまな魅力的な人との出会いと、心に残る言葉であふれていました。
そして、50代でぶつかった壁と、ライフシフトプラットフォーム(LSP)との出会い。「ライフシフトはまだ道の途中」だと謙遜する田邉さんの、これまでとこれからについて、お話を聞きました。
▶この特集では、ミドルシニアが自身の経験や好きなことを発揮できるあたらしい『出番』を創出する「ライフシフトプラットフォーム」に所属するメンバーのライフシフトの体験と未来をお届けします。
聞き手:野々山幸 イラスト:山口洋佑
大学時代の寮を中心とした人との出会いが、新たな自分を作ってくれた
――最初に、田邉さんのこれまでについて教えてください。会社員時代は、どんなお仕事を担当されていましたか?
田邉:いわゆる営業畑が中心です。電通では、新入社員を営業には配属せず、最初は内勤などで働くことが多いのですが、当時は実験的に、新人を営業に配属するということをしていたんですね。タイミング的に私もそこにはまり、振り返ると、入社から30年、営業の仕事を続けました。最初は中小規模のお得意様対応や新規開拓を主業務とするセクションに6年間ほど、その後は大手自動車会社の担当に。自動車会社の仕事は多岐にわたり、CM制作の段取りから撮影、主要な車種のフルモデルチェンジのキャンペーンなどいろいろとやらせてもらいました。その延長で2000年代に入ると海外の仕事をやるようになり、約8年間の海外赴任も経験。海外から名古屋の支社に戻ってからは、会社が人材の見守りと育成、労務管理に力を入れ始めた時期でした。支社全体を俯瞰した人材管理を請け負うことに。直属の上司には言いづらいことなど、若い社員たちのさまざまな相談に乗っていました。
――その後、2021年に第1期生としてLSPに参画されます。退職後は主にどんな活動を?
コンサルタントの仕事をメインにしています。現在、スタートアップ企業と小企業の2社にコンサルとして携わり、定期的に会社としての困りごとなどの相談を受けています。あとはLSPの「営業」チームの一員として、LSP全体の営業力強化をテーマとしたプロジェクトにも参画しています。
――田邉さんが、これまでの人生で大きくライフシフトしたと思うタイミングやそのきっかけはありますか?
会社員時代よりもさらに前、学生時代の経験が大きかったですね。地方出身で都内の大学に進学して学校の寮に入ったのですが、その寮を中心とした人々との出会いが、それまでの自分の価値観をいい意味でぶち壊して、新たな自分を作ってくれたなと思います。2年生2人、1年生2人の4人で一部屋を使うのですが、同じ部屋の先輩が昼飯から宴会からすべてごちそうしてくれて、生協はここにあるからとか、近くにあるこの店がうまいんだよとか、時間があいている限り付き合って教えてくれるんですよ。先輩、同級生含め、すごく魅力的な人たちと濃密なんだけど、付かず離れずないい関係を築くことができました。田舎でちょっとぐらい勉強ができた生意気な高校生だった僕は、ちっぽけなプライドとか自意識とかそういうことじゃないんだよなと気づいて。人とのつながりこそが何よりも大切だとわかり、ガラッと考え方が変わりました。このライフというか、大きく「マインドシフト」したとも言える経験は印象的でしたね。当時、19歳ぐらいで先輩に言われたことを、今でも覚えていたりするんです。
――例えば、どんな言葉が印象に残っていますか?
学園祭の運営を担う任意団体に参加して、学園祭に向けていろいろと活動することが、当時の自分にとって一種のカタルシスというか、あの仲間との一体感は本当にやってよかったなと思うところがあって。そのときの先輩に「やっぱりすごく真面目な人間である」と言われたんです。当時の僕は真面目という言葉は、自分を否定されているような気がして嫌だったんですよね。どんくさいみたいな意味合いを含んでいる気がして、複雑な気持ちでした。でも、先輩はそれがお前のいいところなんだと伝えてくれて、だからどうってことはないのですが、今もこうしてお話できるほど記憶には残っています。
「つぶらな目をしてるね」50代で言われた言葉が、今も胸に残る
――先ほど「マインドシフト」と言っていただきましたが、他にも「マインドシフト」が起こるほどの大きな経験や変化はありましたか?
田邉:40歳をすぎてから海外ビジネスに従事して、8年間の駐在を経験したことも、自分自身に大きな変化をもたらしてくれました。当時は、日本から中国にノウハウなどを伝えていく、知識やスキルをトランスファーしていくというのが僕の任務のひとつだったんです。もちろんテクニカルな面でのトランスファーは必要だったと思うのですが、あるタイミングで、こちらがスタンダードということもないなと気づいて。僕は日本人であることに誇りを持っているし日本が好きですけど、ビジネスにおいて日本はマーケットとしても小さいし、決して世界の中心ではないんですよね。現地に滞在することで痛感して、この認識はその後の自分の価値観や行動原理につながっています。
――40代で海外という新たなチャレンジをすることに、迷いや戸惑いはありませんでしたか?
実は30代で一度インドネシアに駐在し、中途半端なビジネス英語が通用せずトラウマのようになっていました。ただ海外で仕事をしたい思いは持ち続けていて、当時の上司が中国ならダイレクトに英語ではないから多少コミュニケーションも取りやすいだろうと。最初は出張から始めて現地に慣れ、その後の駐在でもあったので行きやすく、周りの後押しがあってできたことだと思います。また、仕事としては、1社の大きなクライアントを続けて人脈も一通りできて、やりやすい反面行き詰まりを感じていました。海外で新たなチャレンジができるのは願ったり叶ったりで、戸惑いなどはほとんど感じませんでしたね。あらゆる仕事をさせてもらって、自分で言うのもなんですが、40代はビジネスパーソンとして最も輝いていた時代なのではと(笑)。
いい人との出会いもたくさんあって充実していました。ある時、当時まだ若かった現地の後輩が、「田邉さん、同じアジア人だから日本人と中国人は似てると思うじゃないですか。俺は中国人はアメリカ人と似てると思うんですよね」と言ったんです。日本人は俺が俺がと主張すると嫌われると思っているけれど、中国人もアメリカ人もしっかりと自己主張することが良しとされる文化を持っている。どちらがいい悪いではなく、そういうマインドの強さがある、と言うのが、当時僕が感じていたことと重なって。日本が世界の中枢ではないというところにもつながって腹落ちして、共感したことをよく覚えています。
――お話を聞いていると、人との出会いやその方たちの言葉からさまざまな影響を受けられていますね。
まさにそうですね。そのタイミングごとにいい出会いがあり、助けられて、皆さんのおかげでそれなりに楽しくやってこられたなと思っています。そして、その方たちから聞いたいろいろな言葉も心の中にありますね。
かつて、自動車会社の専務を務められていた方にかわいがってもらっていたのですが、その方に「田邉さんはね、つぶらな目をしてるのがいいね」と言われたことがすごく印象に残っていて。当時50代前半の男をつかまえて、つぶらもくそもないだろうと思ったのですが(笑)。
――何だか含みがある、素敵な表現ですね。
ある種、やんちゃというか、怖いもの知らずなところも含めて、たしなめられているんだけど、応援もしてくれているようなニュアンスがありますよね。自分のいたらないところもこうして見ていてくれたと思うと、今思い返してもうれしい気持ちになりますね。
次世代のために活動したい。草の根の国際化を目指して資格取得も
――あらためて、LSPに参加した理由を教えてください。
50代に入ってから海外から名古屋の支社に戻っていたのですが、名古屋には地縁血縁もないし、このまま60歳をこえても名古屋で仕事を続ける自分が想像できず……。かと言って、いろいろな要因で東京に戻ることも難しそうで、定年を迎えてから自分が会社に、社会にどう関与できるかが不明確なままでした。そろそろ何か考えないとやばいな、と思っていたときにLSPが始まることを知って。これだ!とピンときて、秒で決めました。何ができるかはわからないけれど、ひとまず参加してみようと。50代で会社を飛び出して、完全にフリーでやっていく度胸は当時の自分にはなかったので、すごくありがたい制度だなと感じました。
――現在、LSPではどのような活動をされていますか?
今年の1月から9月まで、先ほども少しお話したLSPの「営業」の一員として活動を。LSPにはいろいろスキルを持ってはいるんだけど、なかなか仕事につながらない方もいるんですよね。そういった方々がいることを、僕のネットワークの知り合いなどに紹介するという試みです。何か手伝えることがあったら相談して、仕事を生み出せたらいいよね、ということでいろいろと動いています。
――田邉さんがご自分の仕事や活動をする際に、やるかやらないかの選択をする基準はあるのでしょうか?
LSPに参加した際に、一度これまでの棚卸しをしたんです。そこで3つのテーマを決めたのですが、1つ目は子どもや次世代の人たちに何ができるか。僕が携わっているわけではないのですが、子ども食堂をされている方などは応援したい気持ちがあって、僕も子どもたちのために何かアクションを起こしたいなと。2つ目は、草の根の国際化。多くの日本人はまだ国際化できていないけれど、それこそ子ども世代はせざるを得ないと思うんですね。海外勤務の経験を生かせるかもしれないと、今学び直しもしています。3つ目は、ずっと携わってきた広告、マーケティングが世の中をハッピーにできるよう、自分にできる関与を続けていくこと。もう組織人ではないので、がむしゃらに頑張る必要はないかなと思っていて、自分のテーマに沿わない仕事はやらなくてもいいのかなと。とはいえ、なかなか思うようにはいかず、忸怩たる想いがあるのも事実です。
――なるほど。十分活躍されているように見えますが、難しさも感じていらっしゃるんですね。「学び直し」とありましたが、今はどんな学び直しをされていますか?
草の根の国際化の一助になればと、日本語能力教育検定試験の資格合格を目指して悪戦苦闘中です。いわゆる日本語教師として、海外の方に日本語を教えるための資格ですが、今年から国家資格になったんですよね。個人的にリスキリングという言葉は、年齢を重ねてからの資格取得という感じで、非常に手段的に感じてしまい苦手でして……。自分にとっては興味があってこそ学ぶ意味があるし、学ぶこと自体が目的であるべきだと思っています。日本語能力教育検定試験の資格の勉強も、興味本位でしているところが大きいです。
また、ファイナンシャルプランナーの資格についても勉強中です。こちらも自己流知識の再整理だと思い、今後の資産形成などに役立てばと勉強しています。
――最後に、これからライフシフトを考える世代の方々に、アドバイスをいただけますか?
サラリーマン時代、目の前のことを一生懸命やってきた自負があるし、それで評価されてきたとも思うんですね。一生懸命なのは当たり前で大事なことなのですが、寄りかかりすぎてはいけないなと。フリーになると、周りから評価されて満足するのではなく、自ら価値を高めて自分の評価は自分で決めないといけないと思うんです。組織人でいることに絶対意味はあるのでフリーになれという意味ではなく、もっと自分の武器を持つための努力はしておいた方が、あとあと仕事がしやすいはず。組織にいる限りは、どうしても甘えが出てしまうんですよね。お金の管理ひとつ取ってもそうで、年末調整とか税金の管理とか、すべて会社がやってくれていたから僕自身何も知りませんでした。今の知識を持って40代に戻れたら、どれだけの資産が築けたかと思うほど(笑)。自分の牙を磨くことは、ぜひ今から始めてほしいですね。
僕自身も新たな挑戦はしたいと思っていて、それこそ大学時代から続くかけがえのない仲間のひとりが、地元の町おこしの活動に力を入れているんです。僕もかつて住んでいた群馬県の前橋市なんですけど、再活性化が叫ばれる中で、僕も多少なりとも町おこしの力になれたらと思っています。