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じわじわと数年かけて退職を決めた「グラデーションライフシフト」。会社員時代の行動力の延長線上に、今の仕事がある――田村史生さん

ライフシフトをした人たちのストーリーを紹介する連載「ライフシフトの向こう側」。
今回紹介するのは、パナソニックを早期退職し、ライフシフト後の仕事や暮らしを満喫している、田村史生さん。
ユニークなアイデアで人を支援する会社員時代を過ごし、自らの判断で退職・独立。穏やかな語り口で展開される田村さんのストーリーは、行動力と好奇心に満ちていました。今、やりたい仕事や活動に存分に時間を使う田村さんの姿は、一歩踏み出したい人にとって大きな参考になりそうです。

▶この特集では、ミドルシニアが自身の経験や好きなことを発揮できるあたらしい『出番』を創出する「ライフシフトプラットフォーム」に所属するメンバーのライフシフトの体験と未来をお届けします。

聞き手:小久保よしの イラスト:山口洋佑

田村史生さんのプロフィール:
大阪府出身。1989年、パナソニック(当時は松下電器産業)株式会社へ入社。人事部門へ配属され、以降も国内外拠点の12部門で人事業務を経験。幹部層への外部のコーチング導入をきっかけに、自らもコーチングを学び始め、認定マスターコーチやキャリアコンサルタント、手相鑑定士の資格を取得。2023年12月に退職し、合同会社Osekayers(オセッカイヤーズ)を設立。奈良市在住。

会社員時代、「人事が人を支援することが大事だ」とコーチングを学ぶ

――パナソニックに長年勤めていたそうですね。

田村:地元である大阪にある企業で、かつ当時は電機メーカーが強く、パナソニックは世界に向けて発信していました。それに憧れ、グローバルに活躍できたらいいなと思って入社したんです。 

でも、まったく希望していなかった人事をやれと言われまして(苦笑)。文句を言いに行ったりしたんですけど、結局そこは覆らず、その後ずっと人事の仕事をすることになります。最初に配属されたのは、放送用機器の事業場の人事でした。担当したのは、新入社員の教育訓練です。つまりは一年後輩の社員たちの面倒を見る仕事で、自分の好きなように任せてもらい、楽しかったですね。

その後、海外部門の人事を担当し、シンガポール、フィリピン、アメリカで勤務したり、中近東やアフリカ含めて25か国に出張しました。その後、民生用ムービーや液晶パネルの事業場の人事や、本社では社長や役員などの幹部の人事をやったり、社内の人事社員が国内拠点だけでも 1200 人ぐらいいまして、その人事社員の人事をやったりしました。

直近は、キャリア採用や、シニア層の社外転身支援、社員のキャリアの自律を支援するキャリアクリエイト部に所属し、合計12 の職場でいろいろな経験をさせていただきました。

――希望していた通り、海外に関わるさまざまな仕事をして、最後は国内で。

田村:プライベートでの大きな出来事としては、2016年、妻が乳がんにより42歳で亡くなりました。病気が見つかったのはその11年前で、手術を受けて寛解していたのですが、アメリカから一時帰国をした際に検査を受けたら再発が見つかって、妻は僕より先に日本へ戻ったんです。

その後僕は2010 年に帰国して、そこから6年頑張ってくれました。最期を迎えるまでは一切入院せず、抗がん剤などの治療はすべて通院し、家事や二人の子どもの世話などもずっとしてくれていました。

妻が亡くなってから始まったのは、家事についてど素人の僕のワンオペ生活です。そこからは時間外労働はゼロにし、海外出張にも行かなくなりました。新鮮だったのは、複数の女性メンバーから「やっと私たちの苦労を分かってくれましたね!」と言われたこと。

本当にそうなんです、ワンオペって大変なんですよね。特に、弁当や夕飯づくり。経験してみないと分からなかったです。みんな応援してくれました。業務は勿論ですが、例えば、「今日はこれとこれが冷蔵庫にあって、15 分で夕飯つくらなあかんねんけど、何つくったらいい?」と相談すると、レシピをパパッと送ってくれる人がいたり。

――職場の仲間に助けられたんですね。田村さんにとって、人事はどのような仕事でしたか?

田村:決して人事が決めるわけではないんですけど、異動や昇進に立ち会う仕事ですよね。一時期は「この決定がこの人の人生に影響するんじゃないか」と、ちょっと重く考えたこともありました。たしかに真摯に向き合うべきことなんですけど、あるとき「そう考えること自体が人事の傲慢ではないか」と思い至りました。「異動や昇進は人生の一部に過ぎないから、こんなことで人生は変わらない」と思ったんです。

――異動や昇進が節目になることはあるでしょうけれど、あくまで人生の一部だ、ということですね。

田村:異動の調整ばかりしていた時期、仕事の一つに抜擢人事というものがあったんですね。組織の上の人の決定をもとに、ある人を「あなた、来月からここの責任者をやってください」と抜擢する人事です。

人事の仕事は抜擢するまでで、あとは本人次第、うまくいけば「上司や人事に見る目があった」、うまくいかなかったら「本人の実力不足だった」といった空気が自分も含めてあって、「抜擢人事をして放ったらかしというのはちょっと違うんじゃないか?」と思い始めました。

そこで、きちんと人を支援する機能が必要なのではないかと考えて、初めて幹部層に外部のコーチングを導入したんです。異動や昇進は人生の一部に過ぎないけれど、人をしっかりサポートすることは大事だ、と。そのうちに、「これは内製化できるんちゃうか」と思い、自分で勉強を始めました。

2018年、上級者向けである、生涯学習開発財団の「認定マスターコーチ」を取得し、2021年には国家資格「キャリアコンサルタント」を取得しました。

あらゆる行動力の根っこにある、「誰かを喜ばせたい」という思い

――資格の取得まで! 人を支援する人事でありたい、と考えたのですね。
 
田村:社内には、担当業務には関係していなくても、キャリアコンサルタントやコーチの資格を取得していて「相談にのりたい」人がいて、社内にはキャリアやいろいろなことについて「相談したい」人がたくさんいたので、そのマッチングをしようと考えたんです。非公式ではありましたが、希望者に登録してもらい、相談にのる「おせっかいセッション」を全社に展開しました。
 
あるとき、部のメンバーと「相談する側にとっては、コーチングやキャリアコンサルタントってなんとなく偉そうで、ちょっと勇気がいるよね」という話になったんです。「じゃあハードル低いのってなんやろう?」「占いでしょう!」という話になり、僕は「じゃあ手相をやるわ!」と、手相の勉強も始めました。
 
方針発表会で「手相を始めます」と宣言して、毎週金曜のお昼休みに一人ずつ、練習として無料で手相を見始めたところ、社内で口コミが広がって半年待ちになりました。2 年間で約150 人の社員の手相を見させてもらいましたね。2021年に、手相鑑定士の資格も取りました。また、会社で複業が解禁になったため、社外でコーチングを始めました。
 
――社内でのセッション活動、手相、複業と、行動力がすばらしいです。
 
田村:そういうことをしていたら、どんどんおもしろくなっていきました。もともとずっと会社にいようとは考えておらず、「どこかのタイミングで退職を」とは思っていたんですよ。
 
なぜなら、「会社が必要だと言ってくれる間は会社に残る」という僕たち世代にはよくある考え方に、ちょっと違和感があったからです。「会社が必要としなくなるときって、世間からも必要とされなくなるときでは?主語を入れ替えたほうがいいのでは?」と。自分が会社を必要とするかどうか、なんて言うと偉そうですけど、60歳での定年退職は会社や国が決めたことであって、辞めるときぐらいは自分で決めたいと思ったんですよね。
 
パナソニックでは独立する人があまりなかったので、キャリアの自律をすすめる部門の責任者としてそういう姿を見せることができたら、とも考えました。今だったら後任者に引き継げるという社内のタイミングと、上の子が就職することになり、経済的な負担が減ることもありました。子どもは今23歳と20歳になりました。
 
なかでも一番大きかったのは、「時間が惜しい」という思いです。これは妻のことが影響しているかもしれません。「やりたいことが見つかっちゃった以上、早くやらないと時間がもったいない!」という気持ちがありました

ある日急に退職を決めたのではなく、そんな風にいろいろな思いが重なってじわじわとグラデーションで、数年かけて退職の決意が固まっていった感じです。
 
――見つかった「やりたいこと」は何だったのでしょう?
 
田村:コーチングや手相などはあくまで手段として、僕は「人とはちょっと違う自分だけのやり方で、一対一で誰かを応援したい、びっくりさせたい、喜ばせたい、感動させたい」のだと分かったんです。これは、「ライフシフトプラットフォーム(LSP)」のキャリアセミナーで気づき、言語化できたんですけれども。
 
相手から「こういう気づきがありました」「ここまで言っていただけるとは思いませんでした」「こんなに自分のことを話したのは初めてです」などと言われるのが、好きなんです。そういう場を提供できることが楽しいんですよ。
 
手相は、「人は問いかけよりも答えを求めている人が多いのではないか」という仮説で始めたんですが、今、僕は「人は答えを求めているのではなく、自分の人生の意味を求めているんだ」と思っています。手相は一つのきっかけに過ぎません。
 
――退職後、設立した合同会社Osekayersでは、どのような事業をしているのでしょうか?
 
田村:Osekayersは、「多様なスキルと経験を駆使し、一人ひとりに寄り添い、励まし、つながり合う場の提供を通して、個人・企業・地域社会を応援すること」を目的に設立しました。社名はパナソニック時代の活動「おせっかいセッション」から名付けました。僕はおせっかいではないけれど、勝手に誰かを応援する人というイメージです。
 
事業内容は主に三つあります。一つ目は、法人や個人のコーチング。直接契約させていただくのがメインですが、複業時代からコーチングのプラットフォームにも登録しています。コーチングは問いかけが多いのですが、問いかけが苦手な方もいらっしゃいますよね。でも僕が所属するプラットフォームは、コーチ側が持つすべての引き出しを使ってサポートをしていいという考え方で、僕はそれに共感しています。
 
二つ目が、まだ準備段階ですが、会社員時代にやっていたことの延長で、個人向けオンラインサービス「おせっかいセッション」「お守り手相」。三つ目は、気軽につながり合う場を提供する「Owen Bar(応援場)」の運営です。
 
やりたいことで起業しましたが、今はまだ勉強中です。2 年ぐらいかけて、何をやるか、何をやらないかを明確にして、60歳以降伸ばしていくイメージでいます。

いろいろなところに顔を出すと、セレンディピティの機会が増える

――先ほどLSPの名前が出ましたが、LSPとはどう出会ったのですか?

田村:パナソニックでシニア層の社外転身支援を行っていたご縁から、LSPを提供しているニューホライズンコレクティブ株式会社(NH)の代表・山口裕二さんと繋がりがあったんです。LSPの考え方に共感していたところ、お声がけをいただいて、2 期生として参加させていただきました。シニア層を支援している部門の責任者として参加する部分と、独立を考えている個人として参加する部分と、両方ですね。

メンバーのお一人お一人がとても個性的な働き方をされていて、いろいろな選択肢があるんだなと刺激を受けています。「Owen Bar(応援場)」は東京と大阪で毎月開催しているんですが、たまたまLSPのメンバーに銀座のバーのオーナーの方がいて、まずは、東京での開催が決まりました。

セレンディピティ(偶然がもたらす幸運、またはそれを引き寄せる力という意味)という言葉がありますけど、一つの会社にいるより、いろいろなところに顔を出したほうがそういう機会は増えます。ネットワークがあるのはありがたいですね。複数あると安心感が高まるので、LSPはとても貴重な場だと思っています。

――大事にしていることは何ですか?

田村:目の前に興味深いものが出てきたら、まず動くこと。次に、約束を守ること。最後に、空気を読まないこと。この三つを大事にしています。特に最後については、やっぱり会社に長くいると、空気を読む癖がついちゃっているんですよ。例えばイベントのお誘いで、「この人に声をかけたらこちらにも声をかけないとな」とか「この時間にメールを送ったら申し訳ないな」とか考えてしまいがちなんですが、そういうのはやめよう、と。

今の暮らしは、楽しくてしょうがないですよ。収入等に関する不安はありますけど、まぁ、やることはたくさんありますので。会計を自分でやらないといけないのも初体験ですし、「こんなに知らないことが多かったんだ」と感じています。

「Owen Bar(応援場)」でマスターをやってみたら、元々お酒は弱いですし、僕はお酒のことを全く知らないなと気づいて、今はカクテルのつくり方などお酒の修行をしています。こんな展開になるとは思っていなかったので、おもしろいですよ(笑)。

――新しいことにも挑戦しているんですね。

 田村:好奇心は持ち続けていたいです。そのために映画も見たいし、本も読みたい。意欲がなくなってしまうのは嫌だなと思っています。

俳句をずっと続けています。昔コピーライターになりたかったので、言葉には興味があったんですね。ある結社に所属して本格的に始めたのが 10 年前で、月に 2、3 回、句会に参加しています。俳句の世界では若手の部類で、まだまだひよっこです。

――最後に、ライフシフトに悩んでいる人へのアドバイスをお願いします。

田村:ご家庭の状況などはそれぞれだと思いますが、もしやりたいことが明確なのであれば、早めにやったほうがいいと思います。要は、「自分に残された時間をどう使うか」ですよね。人生観の問題なので、「これがいい」と僕が言い切れるものではありませんが。

おすすめしているのは、会社でのこれまでの経験をストーリー仕立てでまとめること。どんな仕事であっても、その経験には絶対に価値があります。最近、NHKの「プロジェクトX」が復活しましたが、誰にでも、その仕事ならではの貴重な体験談があるはずです。ぜひ、振り返ってみてください。