【相馬健太郎の見たい世界】 「これでいいのだ」。経験を全開放して、何でもOKでやってみたらどうなるか…面白くなるしかないでしょ。
ーー植木等は歌った。「わかっちゃいるけどやめられない」。 バカボンのパパは言った。「これでいいのだ」。
最初に相馬さんに好きな言葉を尋ねると、この2つが挙げられた。そのユルさに拍子抜けして、一旦放置していたのだが、彼の話を聞いているうちに、2つの言葉がボディブローのように沁みてきた。
料理と山登りと沖縄が好き。酔うと三線片手にゆるゆる歌う、自称気のいいおじさん。相馬さんの語り口は冗談のようで、油断してへらへら聞いていると実は哲学だったりする、のかもしれない…。
電通でも異色の経歴。情報システム、営業、経営管理、スタートアップ支援、総務。華やかなクリエイティブや営業が電通のメインストリームだとしたら、相馬さんはバックオフィス、裏方の道を進んできた。淡々と前向きに。むしろ楽しみながら。
彼の持つ飄々とした雰囲気の裏には、自分自身と向き合いながら山を登り続けてきた、内省と鍛錬があったのだと知った。
さまざまな山を登り、脚力も経験も得た今、ニューホライズンコレクティブ(NH)という新しいステージに入り、彼はどんな峰へと視線を向けるのだろうか。ーー
▶︎この特集は、NHの人々が今何を思い、未来に何を描くのか、外部の人間から迫ったインタビューをお届けします。聞き手:本間美和 イラスト:山口洋佑
相馬健太郎さんの仕事歴:
99年電通入社。情報システム部門、営業、営業企画を経て、2010年電通デジタル・ホールディングス(DDH)立ち上げに参画。デジタル系グループ会社の経営管理や業務改革などに尽力。14年には「DDHグループ築地オフィス」をプロデュース。ベンチャー企業への出資や事業サポートも行った。 2020年に退社しNHへ。業務改善コンサルティングを主とする株式会社ラストワンマイルを設立。
戦線離脱して、手に入れたもの。
ーー同じ業種を何十年と極めていく人も多い中、相馬さんの経歴は多彩、という感じがします。なぜそんなキャリアの積み方を?
入社して、情報システム部門で社内グループウエアの開発を3年、その後営業へ。そこまでは電通では普通だし、本来なら営業をもっと長く続けるはずだったんでしょうけど、僕は途中で営業戦線から離脱したんですよ。
営業で担当した会社は大型のB2Bイベントが多くて、企画から空間設計のディレクション、運営企画、現場監督、全部やりました。電通社員で当時一番、国際フォーラムのことを知ってた人間じゃないかなと思います。裏導線とかマニアックなトイレの場所とか。
営業6年目、32歳のときでした。そんなプレッシャーが重すぎる仕事をほぼワンオペで何年もやり続け、糸が切れてしまった。あるイベントの一週間前から家から出られなくなったんです。イベント当日だけ何とか行って、また一週間行けなかった。当時の部長が「今困ってること全部言ってみな、俺がなんとかするから」と言ってくれてすべて吐きだし、助けてもらった。そしてピンチは切り抜け、体調も戻ったけど営業の前線は離れました。
今ほど社会が、精神的なことに敏感ではない時代だったから、周りが気づいて対応してくれたことはラッキーでしたね。それ以来は、ちょっと力が抜けた生き方になっていきました。自分に負荷をかけすぎず、楽しいことを大事にして、自分のコンディションを保つこと。これが結局、人に迷惑をかけずに貢献する一番の方法だと学んだんです。
後にベンチャー企業のスタートアップ支援をしていたときのこと。投資先の幹部の若者に、当時関わっていた優秀なベンチャーキャピタリストと僕が呼ばれ、「仕事が前みたいに楽しくない。辛い」と相談されました。ベンチャーキャピタリストの男性は「とにかく頑張れ」と彼を鼓舞しましたが、僕は「これは病気かも」と思い「無理させたら悪化する。休ませよう」と訴えたんですね。彼が後日書いたブログに、本当にありがたかった人として僕の名前が挙げられていました。
ダメな僕でも居場所はある、人の役に立てると思えた出来事でした。精神的なことを経験したから、辛い人の気持ちがわかるようになったし、優秀な人の中にちょっとゆっくり歩いてる人がいたっていいじゃん、それも意味があるじゃんと思うようになりました。
裏方のプロとして花開く。
ーー社会人約10年での出来事が、大きな転換期になったのですね。営業の前線を離れ、どこへ進んだのですか。
裏方にまわりました。営業企画で社内の数字を見る仕事。これが、まだ若かった僕にとっては新しい武器を身に着ける修行のような期間になりました。
そして2年後の2010年に、DDH(電通デジタル・ホールディングス)の立ち上げの話があって、僕を見ててくれた上の人が、「相馬は数字が見れる」と引っ張り上げてくれた。振り返れば、要所要所でいい上司が僕を支えたり引き上げてくれたなと有り難く思います。
DDHは、電通グループのデジタル系子会社を統括した経営管理を行う会社でした。ITインフラやシステム、間接部門の共有化など、あらゆる環境整備を担当しました。自分が大学で研究していたオフィス空間づくりにも携われたし、電通では珍しいスタートアップ企業への投資や支援も経験できました。
前線を離れたことで、数字が見れて経営管理ができて、裏方のシステム系が一通り何でもできるようになって。気付いたら、電通でもなかなか居ないタイプの社員になれていました。
最終的に、ラッキーなことに40代前半で1000人くらいの子会社の管理部長を任されて、部下が5〜60人いる状態になりました。でもそこからステップアップできる場所って、僕の能力だと電通にはもうあまり残っていなかった。もっとワクワクする仕事がしたいと思ってある地方の支社に行きたいと言ったら、そんな小さな所帯に、お前のクラスだと行かせられるポストがないと言われてしまって。
ああ、これからは似たようなところ回っていくんだろうな。スキルも上がらないし、50代までそんな居心地いい中にいたらもう、世の中的には使い物にならなくなってるだろうなと思ったんですね。あと2年くらい続けながら資格を取って辞めよう。そんなふうに考えていたところにNHの募集が出て。こんなチャンスは二度とないだろうと思って決断しました。
「◯◯屋さん」の区分はなくなった。
ーー脇道に外れたように見えて、実はすごく価値の高い別の道に繋がっていた…。それからNHに移って、どんなことに向き合ってきたのでしょう。
面白いのは、「何それ?」っていう脈絡ない仕事もどんどん舞い込むようになって、「俺、何屋さんなんだっけ?」ってわからなくなってきてること。
例えば、ある漫画の版権管理。まったくやったことない仕事ですが、リバイバル、3D化、広告キャラ化などこれから仕掛けていきます。
鳥取砂丘にドームテントを立ててお客さんを呼ぶプロジェクトなんてのもやってます。地元の名物教師と高校生と一緒になって汗かいて。
ある金物屋さんの業務改善コンサルもしています。電通時代は触ったこともないPOSシステムを使った業務改善。エンジニアに頼まず自分で手を動かしてやってるのが新鮮です。社員15人ほどの、地方の小売の会社。電通では関わってこれなかった人たちです。でもお客さんと相対してる真剣さがあってかっこいい。報酬は月数万円なんですけど、すごくやりがいを感じてる自分がいて。
あと、大学の先生もやってみたい。ネタはプロジェクトマネジメントとかで。
これまで電通で色んな経験をしてつけてきた力を、これからは全開放するステージなのかな。「〇〇屋さん」という区分は、もう完全になくなったなと思います。
第3ステージの境地。
ーーすごく楽しそうです。これまでの努力、苦労にすべて意味があったということですね。
電通人生は21年間でした。10年区切りで考えたとき、今まさに第3ステージに入ったと感じます。今、とりあえず何でもやろうと思えるのは、電通でトレーニングされてきたお陰かな。物事を整理して人に伝えることや、得意な人に聞いたり巻き込んだりすること。あとはベースの志と責任感。だからやったことない著作権管理だって、初めてのシステムいじることだって挑めるんだと思います。
NHでは、電通の看板無しで人からお金がもらえるだけのことをちゃんとできて、満足してもらえるのか。つまり「今までつけた力に値札をつける」挑戦なのかなと思います。そしていかに上げていけるか。でもこれがしたい!という強いものはなくて、楽しくて、結果として人の役に立っていればそれでいいかなと。
僕が死んだ時、「楽しいおじさんだったな、遊べなくなって残念」と思ってもらえたら本望。これが人生の目的であるなら、NHを選んだのは正しい道だったと思う。この半年だけで人に話せるネタがめっちゃ増えましたもん。
鳥取の金物屋で20代の女子社員と話しながら業務フロー作り直してるなんて可笑しいし、砂丘で高校生と教師と砂まみれでドームテント立ててわーわー言ってるとか可笑しいし、漫画の版権で何やろうか考えてるのも可笑しいし。ほんと、何やってんだろうって感じですけどね。
「これで、いいのだ」。
ーー大事にしている言葉は、「これでいいのだ」(赤塚不二夫)と「わかっちゃいるけどやめられない」(植木等)の2つだと。最初聞いたときは正直拍子抜けしたんですが、今はちょっと意味が分かるような…。
ふざけてるように見えて、僕にとってはとても大事な言葉なんです。
「これでいいのだ」は、赤塚不二夫さんの葬儀で、タモリさんが白紙を手に語った弔辞の中でこんなくだりがあります。
あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は、重苦しい意味の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を絶ちはなたれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事にひとことで言い表してます。すなわち、「これでいいのだ」と。
今の社会の、何かと叩く感じにすごく違和感があって。別にいいじゃないか、矛盾も弱さもいいじゃないかと思うことばかり。
もしかしたらみんな、答えを外に求めすぎなのかもしれないなと。外に求めるから批判的考え方になるんだけど、自分と向き合ってなんとかしようとするのが先じゃないかなと思っていて。僕は、自分の感情は自己完結をさせたい。他人には常にフラットに接するコンディションを保ちたい。いつもそう意識しています。
で、自分と向き合うと、自分自身にもいろいろ矛盾があることがわかる。完璧には程遠いし、こんなダメな奴がよく言うよみたいな。それが「わかっちゃいるけどやめられない」だし、そんな自分を認めて、人のサガを許して、人間ってそんなもんだって他人も認めれば、それすなわち「これでいいのだ」の境地かなと。そしたら大概のことは平和にいくんじゃないですかね。
ちなみに「修身斉家治国平天下」っていう言葉も好きで、天下をおさめるには国を収める必要があり、国をおさめるには家をおさめる必要があり、家をおさめるには自分の身をおさめる必要があるって意味なんだけど。まぁ、僕は自分に向き合うのが好きってことですな。そして面倒になると酔って寝ちゃう(笑)。
稜線を進むこれからの旅路。
ーー相馬さんの趣味でもある登山に擬えると、これまではアサインされたさまざまな業種という山を、淡々と登り頂上を極め、確実に力をつけてきた…。これからはどんな登山になるでしょう。
スティーブ・ジョブスがスピーチで言った「コネクティング ザ ドッツ」を、今改めて「確かにそうだわー」って思います。「適当に楽しく色々やってたら、つながっていってるなぁ」って。
山登りで言うと、どうだろう。いつも頂上の気分に近い。これ、「縦走」ですね。雄大な山脈を、尾根づたいに登っては少し下ってまた登って。たくさんの頂上を越えていく。
いろんなルートがある。岩場や樹林帯、禿げているところ、緑が茂るところ。自分で選べるし、想定外もある。でもそれぞれの景色や、咲いている花を楽しむ余裕がある。NHで始めたのは、そんな山の歩き方なんじゃないかと思います。
ああ、だから楽しいんだな。僕に合ってる。やっとここにこれたんだな。
https://newhorizoncollective.com/
取材・構成・文 = 本間美和
フリーランス編集・ライター
1976年生まれ。日立製作所の営業から転職、リクルート「ゼクシィ」、講談社「FRaU」の編集者を経て、夫と2年間の世界旅へ。帰国後はNPOを立ち上げ「東北復興新聞」を発行。現在は長野と京都の二拠点生活で2児の母。大人な母のためのメディア「hahaha!」編集長。著書に『ソーシャルトラベル』『3Years』。
イラスト=山口洋佑
イラストレーター
東京都生まれ。雑誌・書籍、音楽、ファッション、広告、パッケージなどの様々な媒体で活動。CITIZENソーシャルグッドキャンペーン「New TiMe, New Me」、FRaU SDGs MOOK 、『魔女街道の旅』(著・西村佑子 山と渓谷社)、絵本『ライオンごうのたび』(著・もりおかよしゆき / やまぐちようすけ あかね書房)、テレビ東京「シナぷしゅ みらいばなし」などを手がける。各地で個展なども開催。yosukeyamaguchi423.tumblr.com/