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【笠間健太郎の見たい世界】 もっと日常にアートを。企業とアートと人々をつなぎ、日本に感性の豊かさを広げたい。

ーー「統括CDというポストにまで登りつめた人が、電通を辞めてアートを広めたいと言っている?」
どういうことなのか。もったいなくはないのか。もうビジネスの世界からは身を引き、優雅な趣味の世界に生きるというのか。

しかし笠間さんのお話を聞くうちに、私の考えはまったく浅かったと思い知った。
アートを広めたいという思いは、優雅な趣味の世界ではない。日本の新しい活路を拓くための、強く、切実で、差し迫ったものだった。

感性と美意識こそ、今、日本人に必要なものー。

一枚の絵に胸打たれるような体験、創作への没頭、クラブやフェスで躍りまくる熱狂、祭りの輪の中で味わう夢を見ているような感覚、夕焼けの色彩に込み上げる情動。
日々の現実的なタスクに追われ、そういう世界をどこか遠くに置いてきてしまった自分。今の生活の一体どこに感性を磨く余地があるのか。

趣味でも教養でも余興でもなく、これからの不確実な時代にこそ、アートは必要不可欠なものだと理解した。

テキパキと正しい表現で無駄なく語る笠間さんが醸し出す雰囲気は、クールでクレバー。しかし見つけた。彼の胸の奥で確かに燃えている、静かな青い炎を。ーー

笠間健太郎さんの仕事歴
93年電通入社。マーケティング、営業を経て、2001年より一貫してプランニング部門に所属。マーケテイング戦略やブランディング、クリエイティブ、キャンペーン等の統合プランナーとして活躍。企業とエンタメ領域を繋ぐコラボレーションプロジェクトを得意とした。CD(クリエイティブディレクター)、統括CDを経て2020年12月に退職、NH(ニューホライズンコレクティブ)に参画。株式会社アーツ・アンド・ブランズ、および一般社団法人アートハブ・アソシエーションを設立。

ブランド×エンタメ、稀有なタイプのプランナーに。

ーー携わられてきたお仕事の中には、私が知っているものもあります。ご活躍だったんですね。そこへ至る経緯は?

マーケティング、営業を経て、入社して10年弱の30歳くらいの頃に、広告企画全般をやるプランニング部門に異動になりました。

営業をやってきた経験から、クライアントと向き合えることがここで強みになりました。戦略作りから現場を回すことまでできるプランナーは当時あまりいなかったので、そういう面で力を発揮できたと思います。

その後、新設されたCDC(コミュニケーション・デザイン・センター)に所属し、さまざまな企業を担当する中で、少しずつ自分がやりたいことを提案できるようになっていきました。
私は音楽やエンタメが好きだったので、次第にブランド×エンタメの双方を結びつけるような方向へ。やっぱり好きなことって形になっていくんだなって思います。

例えば、企業の商品の周年記念をトップアーティストと掛け合わせ、全国アリーナツアーをやったり、自動車メーカーのプロモーションとしてアイドルグループの新チームを設立したり、車のブランドづくりと社会貢献の一貫で、全国の工芸師やアーティストに光を当てたプロジェクトをしたり。

どちらがどちらかのために一方的にメリットになるのではなく、一緒にモノやコトを作ることで両方にとってよいことが起こる
。1+1 が何倍になるような形を目指してきました。

また、企業の商品ブランドを一から作り、時間をかけて育てて広めるといった
仕事も多数携わらせてもらいました。6年くらいやった後、また組織の改変があり、クリエーティブ局の中で、あらゆる領域を統合してプランニングするために新設された「コミュニケーションプランニング部」の部長CDに。さらに4つの部を見る、統括CDになりました。局のマネージメント的立場です。


責任感が強いからこそ自由を選んだ。

ーーやりがいもあり成果も出してきた、立派なポストにも就いた。それなのに退職しNHへ参画する道を選んだのはなぜですか。

今広告業界は大きな変革の時期を迎えていて、広告のあり方も大きく変わりつつあります。例えばデジタル化の流れや、いかに効率よく顧客にリーチするかというデータドリブンな思考など。当然、電通もそれに対応するために、組織改変を含めて会社の向かう方向性を変えなくてはなりません。

管理職は、会社が進む方向へ部下を導くのが仕事。結構真面目な性分なので、与えられた責務は全うするべきだと考えていました。なので、
自分の好きなことだけを自由にやるわけにはいかない。自分の中におぼろげに見えてきた、好きなことや今後やって行きたいことを、管理職の仕事と両立させていくことの難しさを感じるようになったんです。

折しも、2020年で50歳を迎える節目。残りの自分の人生、どうしていくのがいいのかと考え始めて。
人生100年だと半分、60歳定年だとあと10年。このままいくのか、自分がやりたいことの方向にシフトするのか。コロナ禍も相まって、悩みましたね。30年近く当たり前だった、会社でわいわい言いながら仕事をする環境も一変してしまったので。

会社と自分の関係、役割、やりたいこと……。モヤモヤしている時、社内の別部署の人に「あれどうするんですか」と聞かれ、初めてNHを知りました。「これが一つの答えなのかもしれない」と思ったのを覚えています。

定年まで会社に残っても10年。NHは10年間の制度なので、移っても10年。今移れば、現場感覚を持った上で新しい仕事ができるかなとも考えて。付き合いのあるフリーランスの友達にも意見を聞いて、締め切りギリギリで決断をしました。

企業とアートと社会をつなげたい。

ーー自分が本当にやりたい方向に舵を切り、全力で取り組むためにNHに飛び出したということですね。

はい。新しく作った会社はアーツ・アンド・ブランズという名前にしました。
19世紀末にウィリアム・モリスが主導した「アーツ&クラフツ運動」(※産業革命によって大量生産が始まり、美意識のないプロダクトが世の中に溢れてしまった状況に、職人の美意識を取り戻そうとした活動)から発想し、アーツ&ブランズ。

ブランドを作るということと、文化を作るということの橋渡しをして、win-winの関係を作る会社です。なぜアートだけでなく企業を掛け合わせるのかというと、ビジネスの世界にアートの必要性を強く感じているからです。

例えば、私が過去にクライアントの担当として深く関わっていた日本の家電産業は、2000年代始めまでは世界を席巻していたわけです。しかしその後、大手メーカーのB2C事業が軒並み衰退していく様子を私はずっと間近で見てきて、なぜなんだろうと胸を痛め考えていました。

やっぱり日本がずっとやってきたやり方に限界がきたのだろうなと。つまり、お手本を追いかけ、真似して改良し、「より良いものを、より効率的に、より安価に、マスに提供する」というビジネスモデルが。

正解が見つからないのではなく、正解が存在しない「VUCAの時代」に入り、これから何が必要なのか。そのヒントはアートや感性にあると思いました。

アートの考え方、アーティストの思考は、これまでの日本の一般的なビジネスや、さまざまな組織のあり方と逆を行くものです。
問題解決ではなく、問題提起から始まる。
解決策・ソリューションではなく、新たな創造である。
多数の合意ではなく、個人の意思を大事にする。
模倣ではなく、オリジナルである。
 

正解を探し求めるのではなく、自ら問いを設定して「0から意味を生み出していく」のがアートのアプローチ。やっぱり人も企業も、アーティストのようにならなくちゃいけないんじゃないかと思ったんです。

もう「意味の世界」にしか価値は生まれない。

ーー企業で言えば、どれだけのシェアを誇るかがこれまでの指標だったのが、これからはリスペクトされるブランドであるとか、強いファンを持つことが指標になっていくということですね。

著書『世界のエリートはなぜ美意識を鍛えるのか』でビジネス×アートの火付け役になった山口周さんから、こんなお話を聞きました。

文具や日用品といった役に立つものは、コモディティー化される。コンビニで文房具などは1種類ずつしか置いていないのはその際たる例。しかしコンビニに、機能は同じなのに50種〜100種類くらい置かれているものがある。それはタバコ。タバコが機能ではなく「意味」を消費するものだからだ。 

その人にとって「これでなくちゃ」という意味のあるものにしか、もう価値は生まれないということなんですね。
また、チームラボの猪子寿之さんがある時言われた、忘れられない言葉があります。


これからはすべてのビジネスがアートになる。
デジタル社会において、論理や言葉で説明できるものは、あっという間にコピーされて価値がなくなってしまう。
言葉では説明できないんだけどなんか気持ちがいいよねとか、なんかぞくっとするとか、なんか気になるよねとか、そんなものにしか価値は残らない。我々はそれを、アートと呼んでいる。ビジネスが価値を生むものだとすると、すべてのビジネスはアートになるしかないのだ。

これは自分の方向性を決定づける、大きな影響を与えてくれました。

単純に「もっとアート作品を買いましょう」とか「展覧会に協賛してください」ということではないんです。もっと多くのアートに触れ、それによって美意識を育み、磨かれた美意識でモノやサービスを作りましょうということです。

そしてそれに触れた人々は、より心の豊かさを求めるようになり、より多くのアートを求めるようになる。さらにこの過程を通じて、アーティストの活躍の場が増えたり、アートのマーケットが盛り上がる。この循環を目指しているんです。

ダリに夢中になった少年。火はその時ついていた。

ーーすごく面白いですね。遡ると、笠間さんとアートをが繋がった、そのルーツはどこにあるのでしょう。

父親が趣味で絵を描ていたのですが、私の記憶に鮮やかなのは、家の本棚に並んでいた『現代世界美術全集』ですね。かなり大判で、黒い箱の背に白文字で画家の名前が入っていたのをはっきり覚えています。

小学生の頃、この全集のサルバドール・ダリの巻にめちゃくちゃ衝撃を受けました。シュールレアリズムの独特な画風に心をわし掴みにされ、釘付けになって眺めていました。あれが私のアートとの出会いだったのかな。

それから大学生まで、表現というものが好きだったように思います。自分でも絵を描いたり、展覧会に行ったり、バンドを組んで演奏したり。大人になってからは、そうですね、フジロックは1998年からずっと通い続けていました。2014年からは、徳島の阿波踊りにも毎年参加して踊っていました。

初めて阿波踊りを踊った時、ものすごい熱気の渦の中で一心不乱に踊るうち、「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損損」というフレーズが、本当だなぁ!と分かったんです。熱狂、心の底から沸き上がるもの、余計な思考が飛んでいく、没頭する感覚。それを味わったら見事にハマってしまいました。

教科書で習ったラスコーの壁画や縄文土器もそうですが、人類は太古の時代から創作活動をしてきたし、歌い、踊り、祈り、祭りを行ってきました。心を熱くするもの、感性を揺さぶるものに、「人間の根源的なもの」があると思います。

コロナ禍でアーティスト、パフォーマー、演奏家などの表現の場が失われ、「アートは不要不急なのか?」と議論にもなりましたが、人々が昔から大事にしてきて、どれだけ時代が変わっても失わなかった根源的なものが不要不急なのか。そういうものがあったからこそ、人間は生きてこれたんじゃないでしょうか。

生と死を意識するようになればなるほど、人は創造力や感性を磨いて人間性を取り戻す必要がある。そのためにアートはとても重要なものだと私は思います。

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ついに種火は、炎になる。

ーー少年時代にダリでついた青い種火を、バンド活動や阿波踊り、コラボプロジェクトなどを通じて、ずっと消さずに守ってきた。企業の管理職という立場を離れた今、ついに全力で燃える時が来たんですね。

そうかもしれません。NHに加わって今、やりたいことがサブではなく、ちゃんと自分の真ん中にあることが嬉しい。日々が前向きで楽しい気持ちです。

まだまだ形にできていることは少ないけれど、これからだと思っています。いま日本では、多くの企業が先行きの見えない中で将来を模索しているし、まだまだアートは日常の中になく、多くのアーティストがアートだけでは生活できない状況ですよね。そういう状況を、少しずつでも変えていけたら。設立した一般社団法人の方では、アートと経済と社会の関係をもっと近くすることに邁進したいと思っています。

人々がもっとアートに親しむようになれば、美意識が高まってくる。美意識が込められていないものに「ノー」と言うようになる。そうすると企業もアートやアーティスト感覚をもっと取り入れていくはず。その変化に貢献したいんです。
その先に、精神的により豊かになっていく、新しい日本の未来があると信じています。


取材・構成・文 = 本間美和
フリーランス編集・ライター
1976年生まれ。日立製作所の営業から転職、リクルート「ゼクシィ」、講談社「FRaU」の編集者を経て、夫と2年間の世界旅へ。帰国後はNPOを立ち上げ「東北復興新聞」を発行。現在は長野と京都の二拠点生活で2児の母。大人な母のためのメディア「hahaha!」編集長。著書に『ソーシャルトラベル』『3Years』。
イラスト=山口洋佑
イラストレーター
東京都生まれ。雑誌・書籍、音楽、ファッション、広告、パッケージなどの様々な媒体で活動。CITIZENソーシャルグッドキャンペーン「New TiMe, New Me」、FRaU SDGs MOOK 、『魔女街道の旅』(著・西村佑子 山と渓谷社)、絵本『ライオンごうのたび』(著・もりおかよしゆき / やまぐちようすけ あかね書房)、テレビ東京「シナぷしゅ みらいばなし」などを手がける。各地で個展なども開催。yosukeyamaguchi423.tumblr.com/

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