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ライフシフトで「充実したサラリーマン」である自分へかけていた魔法が解けた。大都市暮らし・大企業勤めから、ローカルコミュニティへ――堀切禎史さん

走りながらも心の奥底で「ゆでガエルにはなりたくない」「井伏鱒二の小説に出てくる山椒魚みたいになってはいけない」と思っていた――。
会社員として意欲を持って仕事をこなし、充実した毎日を送りながら、
組織への依存、つまり会社がないと成立しない人間になっていくのではないかという不安は、常に抱えていたと話す堀切さん。
それでも、約20年間は会社を辞めるという発想はまったくなく、ライフシフトプラットフォーム(LSP)の募集をきっかけに、仕事もプライベートも大きなライフシフトを決断。
これまでの経緯や、心境の変化を伺いました。

▶この特集では、ミドルシニアが自身の経験や好きなことを発揮できるあたらしい『出番』を創出する「ライフシフトプラットフォーム」に所属するメンバーのライフシフトの体験と未来をお届けします。

聞き手:野々山幸 イラスト:山口洋佑

堀切禎史さんのプロフィール:
2001年株式会社電通に中途入社。営業・ビジネスプロデューサーとして数多くのキャンペーンを手掛ける。その後、広告受注を前提とせずにクライアント企業と伴走する「未来創造プロジェクト」や「ビジネスデザインプロジェクト」をプロデュース。2017年にはビジネスデザインの専門組織「電通ビジネスデザインスクエア」の立ち上げに参加し、ビジネスデザイン領域(現BX領域)の確立に努める。2019年にトランスフォーメーション・プロデュース局のエグゼクティブプロデューサー(局長職)に就任。2021年退職。

LSPを知って「依存の脱却」「自立への問題意識」が具体的な検討事項に

――まずは、会社員時代はどんなお仕事をされていましたか?
 
入社から約10年間は営業職に就いていました。広告代理店の営業はいわゆる一般的なセールス営業とは少し仕事内容が異なり、企業担当として、クライアントにコミットする形になるんです。アカウントエグゼクティブとも訳すのですが、クライアント専属の御用聞きのような役割で、要望を引き出して広告のキャンペーンなどを企画・実行するために、社内のさまざまなスペシャリストをアサインし、リードしていくことなどがメインの業務でした。
 
ところが、クライアントの真の課題に向き合うほど、このやり方だけだと今後うまくいかなくなるかも、と課題意識を持つようになりました。そこで「営業」から「プロデューサー」という肩書きに変えて、広告で培ったクリエーティビティや課題解決能力を、クライアントのビジネスにアイデアやソリューションとして提供し貢献していく、いわゆるビジネスデザインと言われる領域を追求したのが、後半の約10年間でした。
 
いずれにせよ、約20年間、楽しく仕事をしていましたし、会社の待遇に不満がないどころかむしろ良くしてもらっていると思っていたし、先輩・後輩・仲間にも恵まれていた。会社を辞めるなんていう発想がないほど、充実したサラリーマン生活を送っていました
 
――そんな順風満帆な日々の中で、退社を決意したきっかけは?
 
2020年7月に募集があったLSPの提示です。ここで考えが完全に切り替わりました。
 
充実したサラリーマン生活を送るということは、反対から見ると、ものすごい自己暗示をかけてきたとも言えるんですよね。当たり前ではあるのですが、人間は安心安全な道を選ぶし、そのために頑張って大学受験、就職活動をして会社員としての自分の足場があるわけで。20代後半から30代にかけて、「このままでいいのだろうか」と悩む「社会人思春期」みたいな時期に英語の勉強をしてみたり、ビジネススクールに通ったりもしたのですが、目の前の仕事を一生懸命やるうちに、役職を与えられたり、家族ができたりして、むしろリスクなんて取れなくなる。大企業の中で日々感じるささいな違和感も、それを上回る責任感、自己洗脳などによって打ち消していたんだなと思います。「ゆでガエルになってしまわないか?」「山椒魚のようになってしまわないか?」という組織への「依存」に対する恐怖や不安を抱えながらも、身動きが取れない状態になっていたんですよね。
 
――「ゆでガエル」や「山椒魚」というのは、なかなか衝撃的な表現ですね……。
 
心の奥底ではずっと思っていて、でも打ち消していた恐怖や不安が、LSPを知ったことで顕在化したという感じです。「依存からの脱却」「自立への問題意識」それに「自由への憧れ」が潜在意識から一気に「具体的検討事項」へ昇華した。自分で自分にかけていた魔法が解けたような感覚もありました。
 
「新しい挑戦をするチャンスかもしれない」と、そこでは特に迷わず、これまでお世話になった人にどの面下げて会社を辞めますと伝えるかとか、どうやって周囲の人たちの合意形成をしようか、ということに考えが向いてきました。
 
――それだけ堀切さんの気持ちを動かした、LSPのメリットとは?
 
普通の早期退職ともちょっと違う、ユニークな制度だなという印象でした。命綱が多少ついたまま、新たなチャレンジができて自立もさせてもらえるというのは、心強いですよね。これはひょっとして、退社するとしたら最初で最後のチャンスなのかもしれないと。「やらない後悔(=想像がつく)」と「やる後悔(=想像がつかない)」を天秤にかけて「やる後悔」を選んだ方がいいと、素直に思えたことが大きかったです。
 
ただ、お伝えしておきたいのは、勝算があったから決意したわけではないんですね。このチャンスを逃したら、企業で後半戦も一生懸命がんばって、ヘトヘトになって定年退職のゴールテープを切ることになるだろうな、と。それももちろん生き方の一つだと思いますが、長い人生だとすると、今まで会社で培ってきた力でもう少し外海でチャレンジすることはなるべく早い方がいいかもしれないと思いました。「機会」にベットしただけで、「何をやりたいか」にベットしたわけじゃない。会社を辞めて自分に何ができるのかわからないままのスタートだったので、そこへの不安や孤独感はもちろんありました。

「辞めることだけ」を決めてもがき続けた3年間。プレーヤーとしての自分に自信が

――「辞めて新たなチャレンジをすること」だけを決めていたとのことですが、退社してからの約3年間の活動について教えてください。
 
今は「プロジェクトプロデューサー」という肩書きで、クライアントと一緒に課題解決のためのプロジェクトを企画・実行することを軸に活動しています。特に、中小企業の経営者の方々に併走するケースが多いですね。問題が山積みなんだけど、良くするために何から手をつけていいかわからないという企業に、ひとつずつポイントを確認しながら問題解決の整理、発見をし、実行していく、といったことをしています。
 
会社を辞めて痛感したのは、当たり前ですが大企業でのポジションよりも、クライアントに何が提供できるが大事ということ。ただ、特に会社員として最後の約10年間でやってきたことは、意味があったということもわかりました。企業や経営者に寄り添いながら課題を解決していく、といったスキルが、十分身についていたんだと実感できたのは、大きな収穫でした。精一杯もがいた3年間でもありましたね。
 
――「もがいた」ということは、やはり大変さやつらさもあったのでしょうか?
 
会社から離れて大きな海に出て、何が通用して何が通用しないかを1から模索して進めていった感じだったので、やはりしんどいこともありましたね。最初の半年間は、引き継ぎという意味での仕事はしましたが、その後は外へ外へ、機会を求めました。LSPの制度をチャンスだと思って辞めたのですが、せっかく大きな組織を離れたので、古巣に依存しないようにしようと、こちらも距離を置いていました。新しい仕事だけでどれだけできるのか、家族を養っていけるのかとある意味追い込んでいたし、すごく真面目に頑張ってきたなと思います。
 
会社にいたときは、年齢やポジションとともに、プレイヤーとしてというよりもチーム全体が力を発揮するためにマネジメントし、プロジェクトをリードすることが求められていました。退社後は今の自分がどこまでできるかの挑戦でもあったのですが、結果的にプレーヤーとしての自分はまだ動けるし、必要とされているのだなということもわかり、よかったです。これがもう少し遅くなって、年齢が上がっていたら同じようにできていたかわからないし、もしかしたらもうプレーヤーとしては働けなくなっていたんじゃないかなとも感じますね。
 
――当初、LSPとは少し距離を置いていたとのことですが、現在はどのように関わりを持っていますか?
 
この3年間はあえて頼らないようにしましたが、単なる退職ではなくて、つながりが維持できるのはLSPの良さだなとは思っていて。十分能力があるのにそれを発揮する方法を見つけられないとか、悩んでいる方もいらっしゃいました。僕自身が電通時代やその後のチャレンジで得た経験をお伝えし役に立つこともできるかもしれないと思いました。これまでは、LSPの他のメンバーにもあまり貢献もできていなかったので、今後は、つながるべき人とつながって、サポートができればと思っています。
 
あと、これまでお話したことと少し矛盾するかもしれないのですが……3年間自立を目指してひとりで仕事を開拓してきたものの、おもしろいことに、自分のためだけに頑張るのも限界があるんだと感じたんですよね。必要としてくれる「人」のために働きたいなと。仲間のために、誰かのために、というのは、意外と僕が働くモチベーションだったんだなということにも気づけました。

地元のコミュニティから気づいたライフワーク。それは「いい居場所作り」

――LSP制度での退社を決意したとき、ご家族にはどのようにお話されましたか?
 
最初、妻は「わざわざ会社を辞めることはないんじゃない?」と。何か不満があるのかとも聞かれましたが、これまでお話したような僕の思いを、きちんと伝えるようにしました。強行突破はできないので、家族との対話は常に大切にしていますね。
 
実は、独立してから家族で東京から逗子に転居しました。退社したというのもあるとは思うのですが、家族との時間が増えて、子どもたちとも密度濃く一緒にすごしているので、成長がゆっくりに感じます。自然豊かな環境で子どもたちにいろいろな経験をさせてあげる機会を持てるようになり、それは妻も良いことだと思っているみたいです。
 
――移住されたのですね! それは前々から計画されていたのですか?
 
子どもが生まれたタイミングで自然とともにありたいという想いがより強くなり、40代の頃から2拠点で生活をしていたんです。釣りが好きでよく行っていた三浦半島の漁師町に、土地を見つけて小屋を建てて。金曜の夜から日曜日まで、週末はそこで生活していました。40代の中間管理職時代にも、週末は家族と自然の中ですごして癒やされるんだ、というのが大きな原動力になっていたと思います。退社をした後は、東京を離れて家族とともに転居しました。もともと東京生まれ東京育ちだったのですが、大都市暮らし・大企業勤めから、ローカルコミュニティへと大きく軸足を移しましたね。
 
――暮らしの拠点を変えたことは、やはり大きな転機になりましたか?
 
そうですね。退社に前後して、人生の後半戦を自分らしく生きるとはどういうことなのか、「豊かさ」の定義を考え直しました。結局人生って、家族や仲間など人に恵まれて生きていくのが幸せなことなのかなと。身近なコミュニティでいい仲間を作って、そこで貢献していきたいと思うようになりました。そうなると、東京のような大都会は便利で刺激的ですが、人生後半戦の僕には大きすぎるかもと。今は地元でいろいろと、自分にできることを模索しながら活動しているところです。
 
――地元のコミュニティでは、具体的にどのような活動をされているのですか?
 
仲間と共同出資でバーを経営しています。今は出資者が100人を超えました。メンバーシップで居場所を提供しながらコミュニティを作っていく試みをしています。自分たちが株主であり、オーナーであり、当事者であるという仕組みで、それぞれ得意なことを担当している感じですね。アプリを作れる人がいたり、クリエイティブなことができる人がいたり、みんな得意なことがたくさんあるので、それを地元で存分に発揮してもらえればと。僕も、どうしたらこのコミュニティが活性化するかを考えながら、週1回ぐらいイベントを共同で企画したりしています。
 
僕にとって電通の仲間もいまだに大切ですし、新たな地元の仲間もとても得難いものです。人生ってそういう居場所が大事なんじゃないかなと思うんですよね。「いい居場所作り」というのはひとつのテーマで、今後もライフワークとしてやっていければいいなと考えています
 
――その他にも、今後やってみたいことや学びたいことなどがあれば教えてください。
 
今年から「苦手なもの」にチャレンジしようと思い、ピアノを習い始めました。以前から、ある程度何でも感覚的に、器用にこなしてしまうところがあって、きちんと楽譜を読んでそれをアウトプットしていくようなことを、せっかちに面倒くさがるところがあったんです。そういった苦手なことに、きちんと地道に向き合うことをやろうと考え始めました。
 
そう思ったきっかけとしては、少し前に子どもと一緒に久々にスキーをしたのですが、笑っちゃうぐらいうまくいかなくて。心が折れそうになるのですが、別にうまくいかなくたっていいじゃないかと、あまり恥ずかしさを感じなくなった自分に気づいたんですね。
 
会社員時代は、人との比較や評価をする・される機会が多く、相対的な中で生きる心苦しさを知らず知らずのうちに感じていたなと思います。特に人を評価するというのは大変なことだと思います。退社してそういった苦しさから解放され、無理に見栄をはったり背伸びしたりすることをしなくなりました。ありのままの自分で苦手な分野に挑戦しようとすることにも、もしかしたらつながっているのかもしれません。