【山本浩一の見たい世界】人と違うことを面白がり、内向きと外向きの力を伸ばせば、個性が花開く社会に。
ーー「人生ずっとラッキー続きで、いつでも最高」。
そう軽やかに笑う山本浩一さんの性格を一言で表すならば、スーパーポジティブ。
帰国子女で高学歴、電通に入り数々の面白い仕事をして……順風満帆ピカピカに見える彼の人生だが実は、常にマイノリティ側に置かれてきた人生だとも言えるだろう。
小学・中学時代はオランダとイギリスで異質な日本人として、日本に帰国してからはクラスに1人のガイジンとして。電通に入ってからは数少ない理系として、アップルに出向した時代はただ1人の日本人代理店社員として。MBA留学に行けばファイナンスのプロたちの中で圧倒的少数のマーケティングの人間として。
そんな状況の数々を、彼は逆境とすらカウントしたことがない。いつも「1ヶ月もすれば順応する」と言い、人と違うことや異なるカルチャーから学ぶことをむしろ楽しみ、強みに変えながら「転がる石のように」生きてきた。
今、ニセコという人種の入り混じる町に住み、居心地の良さを感じながらやっぱり「最高」と言って笑っている。
羊蹄山の麓で山本さんが描く、日本の未来。これからの日本人に必要なのは「他流試合」だと言う。そのココロは。ーー
▶︎この特集【NH230人が見たい世界】は、NHの人々が何を今思い、何を未来に描くのか、外部の人間から迫ったインタビューをお届けします。聞き手:本間美和 イラスト:山口洋佑
山本浩一さんの仕事歴:
東京大学工学部卒、1986年に電通入社。外資×テクノロジーの分野で主に戦略マーケティングとして活躍。1999~2000年、米コロンビア大にMBA留学。その後、電通総研、クリエイティブ部門、社長室を経て退職。2021年1月よりNH(ニューホライズンコレクティブ)に参画。専門領域はグローバル・ブランド・マネジメント、テクノロジー・ブランディング、コミュニケーション・デザインなど。
外資×TECH系マーケティングはとりあえず山本
ーーテクノロジー系35年。ちょっと特殊な電通人という感じがします。
僕の入社当時は特に理系が少なかったんです。ちょっとテクノロジーがらみの製品の仕事だとみんなちょっと敬遠しがちだった。
そんな中入社してきたテクノロジー大好き人間。帰国子女で英語が得意なこともあって、外資×テクノロジー分野のマーケティング仕事はほとんど、「じゃあ山本」ってまるっと任された感じでしたね。
特に長く担当したのはアップルでした。ジョブスが居ない時期の88年から94年、7ー8年かな、日本での本格展開に携わりました。血にも肉にもなった仕事。電通人生を代表する仕事と言えるかな。
現地本社にもデスクを置いて、広告代理店って役割を越えてアップルの社員と一緒になってテンキーをどうするとか、漢字のソフトウェアをどう乗せるとか。時にはデモするためのソフトを一緒に開発したり、プログラミングしたり。
そしてコンピュータを日本へ。当時はNECの98シリーズや富士通が市場を席巻していて、そこに喧嘩を売って出るというローンチだったから、どういう立ち位置で行くかという戦略作りをしました。最終的には、常識を捨てて新しいものにトライしようという意味で「小学生になろう」というキャンペーンをしました。
アップルで見せつけられたのは、デザインはもちろん、操作性へのこだわり。ボタン1つの操作を極めるのに、1ピクセルどうするかでチームでものすごい議論をしていて。ここまでやるんだ!と感動したのを覚えています。
ーーCDウォークマン時代にipodが登場したとき、ボタンが異様に少なくて「え?回すの?!」とかびっくりしました。
ね!電源どこだよ!みたいな。でも使い始めると使いやすいんだよね。
現地での制作過程を見ても衝撃でしたよ。まず自由な発想があって、発想を実現するためにテクノロジーを進化させていく。そして使い方を研ぎすます。そこのすごさ。
日本だと技術者が性能を極めることが先にあるけど、どう使いたいからこういうテクノロジーをつくろうと逆に考えていくんですね。目から鱗でしたよ。
転がる石のように
ーーそんな刺激的なアップルでの仕事は、ジョブズ氏の帰還で終わるわけですね。そこからどう進んだのですか?
マーケやコンサルのクライアントワークも続けながら、社内プロジェクトに関わるようになりました。当時電通はアジア各国へのネットワークが広がっていて、そこをサポートするシステム、今で言うグループウェアが必要になりました。ブリーフィングシートから、データ分析、集計システムが一体になって、ネットワーク上で使えるものが欲しい。そこで何を思ったのか、自分でプログラミングを始めたんです。ちくちく一日中プログラミングして、2年かけてローンチしました。
ーーそんなものを自分で作れるんですか!でも本来なら、いわゆる管理職になっていくタイミングだったのでは?
そうね、管理職は一番面白くなさそうだなと(笑)、避ける気持ちもあったのかも。そしてグループウェアをローンチした後、社内の留学制度を使ってアメリカに行くんです。
留学は大きな転機になりました。ずっと限られた範囲で仕事をしてきたから。
特にコロンビア大のビジネススクールって、ファイナンスが強い学校なんですよ。広告代理店でマーケティングやってる人間なんて超少数派でした。クラスメイトもほとんどがファイナンス業界。授業も経済学系が面白いんですよ。刺激が多くて、それまで自分の視点になかったものが加わりました。
帰国後は、たまたま電通総研から声がかかったので加わって、広告市場の予測を出したりして、3ー4年したらマーケティング部門に戻り、たまたま広告賞の審査員をやったりカンヌでスピーチしたりした縁で、なぜかCDCというクリエイティブ部門に行きました。2ー3年かな。
それから最後の一年は社長室で、社内の中長期戦略づくりをしました。といっても、すごい優秀な若いメンバーが揃っていたので、「うん、いいね!」と背中を押すのが仕事でしたけど。
電通人生振り返ると、「Like a Rolling Stone」ですかね。なるがままに、回ってきたものは断らず、「どんな仕事でもやってたらいいことあるさ」って取り組んでたら、どんどん新しいところへ転がっていった感じ。とにかくラッキーだったし、人に恵まれてきたのは確かですね。
ニセコで始めた新しい働き方
ーーそしてNHへ。退職して北海道のニセコに住むようになったとか。半年以上経ちますが、どうですか?
最高ですね。最高以外の言葉が見当たらないです(笑)。
電通で定年の二字が見えてきたとき、この先どうしようかと考えて、60歳になったらフルフル働かないで、趣味のスノーボードや音楽がもっとできたらいいなぁとか思っていたんです。NHを知ったときはもう58歳だったんですけど「ぴったりじゃん!俺のためじゃん!」と思って即応募しました。人生ラッキーだらけと思ってきましたけど、これは電通人生最後にして最大のラッキーだったなって思います。
ニセコに来てから、午前中は基本的にスノボ。午後は仕事をして、たまに温泉入ったり公園でサックスを練習したり。仕事は詰め込みないように同時進行2件くらいでキープして、いろんな会社のコンサル的な仕事、販売戦略やブランド戦略をやっています。描いていた理想の働き方ができてるのが嬉しいです。
今居るニセコって町は、異常にインターナショナルな場所なんです。小学校は3分の1がハーフの子だし、町のスーパーに行っても外国人が多いし。オーストラリア人が多くて、あとはイギリス、アメリカ。最近はインド、香港、タイの人も増えてきました。
面白い町ですよ。やっぱり外国の人は、基本的にフレンドリーさ、人とインタラクションする楽しさを持ってますよね。公園でサックス吹いてると、拍手してくれたり話しかけてくれる人が多いです。
他流試合が日本の次世代を拓く
ーー山本さんがMITメディアラボの石井裕教授と対談した記事を読みましたが、石井さんのお話の中に、「日本人はもっと他流試合せよ」とありましたね。全く違った価値観や原理で生きている、人間・文化・社会に身を置き、対峙するべきだと。山本さんのこれまではまさに「他流試合」を楽しんできたような感じですね。
そうかもしれないですね。小学〜中学生で僕は4回転校しました。英語がまったく話せない状態で入ったイギリスのど田舎の小学校、生徒がほぼアメリカ人のオランダのインターナショナルスクール、イギリスにできた日本人オンリーの中学校、そして東京の公立中学です。
このときの順応のプロセスは自分に大きな影響を与えたと思います。ニッチもサッチもいかない中で何とかして仲間になっていくという、自分なりの試行錯誤があった。どの環境でも1ヶ月すれば慣れたんですけど。その素地があってか、マイノリティであることや人と違うことは、僕にとっては普通、むしろ面白いことで。そういう部分が結果として人生最高って思わせてくれたのかもしれないですね。
よく例で言うんですけど、スキーのリフトで相席になったとき、外国だと会話しますよね。でも日本人同士だと気まずくてしゃべらない。フライトの隣り合わせでもそう。まあ話しかけられすぎると、僕でもちょっとそっとしといてくれと思うけど(笑)。
でも大事ですよね、他人に興味を持って、違う価値観や情報を得ることの面白さを知ってるって。
日本人ってやっぱり少し閉じてるというか、他人に対して臆病な部分がある。もっと言うと、学校でも会社でも社会全体でも、違うものへの拒絶や、同じなのが良いという気質が強いですよね。そのままでは立ち行かなくなるのは見えているから、社会としてイノベーションが生まれるために、多様性とオープンマインドは必須だと思います。
1つの突破口としては、幸い日本は世界中にファンが多いので、そういう人たちと交流していくといいですよね。日本が進むべき道を教えてくれるいい先生だと思います。慎ましさや繊細さ、日本の美意識をアプリシエイトしている。かつ海外で育っているから、インタラクションへの貪欲さももってる人たち。
日本を知り、日本人の良さはキープしながらも、自分と違う価値観や世代の人ともっと交流して、違いを楽しんでいくことを、両立できるカルチャーになっていくといいですよね。内へと外へ。そのバランスかなと。
内側の世界と外側の世界
ーーお話を伺っていると、山本さんの中にも、外に開かれた世界と、内側に籠もっていく世界が共存しているように見えます。
確かに、性格は超楽観的で、基本的に何でも「最高!」って思っちゃう一方で、意外に反省もするんですよね。自分に対するダメ出しとか、もっと良くなるはずだったとか。そういう二面性を大事にしているかも。
知らない人と話して仲良くなるのも好きだし、仕事でも、面白い連中とインタラクションしながら物をつくっていったり、彼らがつくるものがよくなるようにサポートしていくのも好き。
だけどストイックな努力も結構好き。スノボもサックスもプログラミングもそう。「頑張る」と「できた」を行ったり来たりするのが好きなんです。完璧を求めている訳じゃなくて、「より高い満足」「より楽しくなること」を求めているんだと思います。
共通して流れているのは、そうですね、「心をワクワクさせてくれるものに出会いたい」ってことかも。人のアイデアや、あいつすごいな!ってこともそうだし、自分で試行錯誤してうまくいった瞬間もそう。内発的、外発的の違いであって、僕の場合、内発がある程度ないと面白くなくなっちゃう。でもそれだけだと行き詰まっちゃう。
芽がちゃんと花開く社会を
ーー今、世の中を眺めてどうですか。多様性ってお話がありましたが、日本だと小学校の時点で逆方向の世界に放り込まれてしまうのかも。天才性が見出されにくいし、オリジナルでいいじゃんと思いにくい。
そうですね。先生方ももっと個性的であり続けていいと思うんですが、だんだん矯正されちゃうのか、保守的になっていく人が多いですよね。僕はイギリスやオランダで、面白い先生にたくさん出会えました。ギターを始めたのも、教室でいつも弾いてくれた先生のおかげだし、テクノロジーに興味をもったきっかけも、オランダの小学校でヒッピーみたいな先生がガム噛みながら教えてくれた話でした。
「あのな、トランジスタアンプって、ボリューム変えても消費電力が一緒なのがあるんだよ」って。理科的じゃなくて、社会常識的な理系ナレッジに惹かれたんです。
全体的なことでいうと、それぞれの人の持っているコンピタンス、強みが生かされていない社会だと、新しい時代にグローバルな競争環境でいい仕事をしていくような人が育っていかないよなと思います。
「志の高い人を育てていく」という、社会的ムードや投資などの経済システムを整えていくことが大事ですよね。でも今の日本は「みんな同じでみんな幸せ」じゃないけど、飛び抜けた人や才能のある人をやっかむところがある。いい発想や社会を変える大志を抱いている若い人はたくさんいるのに、途中で叩かれたり潰されたりして変な形になっちゃったり。かたや大企業で矯正されて結局同じ花が咲いちゃったり。もったいないことが起こってるなあと。
でも若い人、とくにソーシャルアントレプレナー系のことを目指してる子たちの意識は、どんどん変わっていってる気がします。そういう子たちがしっかり花を開かせられるように、僕も何かそんなお手伝いが……そうだね、ご縁があればそっちに転がっていくかもね。
New Horizon Collective WEBSITE
取材・構成・文 = 本間美和
フリーランス編集・ライター
1976年生まれ。日立製作所の営業から転職、リクルート「ゼクシィ」、講談社「FRaU」の編集者を経て、夫と2年間の世界旅へ。帰国後はNPOを立ち上げ「東北復興新聞」を発行。現在は長野と京都の二拠点生活で2児の母。大人な母のためのメディア「hahaha!」編集長。著書に『ソーシャルトラベル』『3Years』。
イラスト=山口洋佑
イラストレーター
東京都生まれ。雑誌・書籍、音楽、ファッション、広告、パッケージなどの様々な媒体で活動。CITIZENソーシャルグッドキャンペーン「New TiMe, New Me」、FRaU SDGs MOOK 、『魔女街道の旅』(著・西村佑子 山と渓谷社)、絵本『ライオンごうのたび』(著・もりおかよしゆき / やまぐちようすけ あかね書房)、テレビ東京「シナぷしゅ みらいばなし」などを手がける。各地で個展なども開催。yosukeyamaguchi423.tumblr.com/