見出し画像

20代後半でアメリカの大学に留学、その後も転職を続けて地元へUターン。自分が心地いいと思える道を探して、柔軟に変わることを恐れない――宮嶋洋子さん

地元の秋田、東京、アメリカ。
20〜40代まで、場所も職も軽やかに変えながら、自分の道を切り開いてきた宮嶋さん。
ひとところにとどまらない、その圧倒的な行動力を支えるものとは?
そして、一度立ち止まり、地元に戻ったときに知ったというライフシフトプラットフォーム(LSP)との出会いとは?
宮嶋さんのこれまでのキャリアと、その思いについてお話を伺いました。

▶この特集では、ミドルシニアが自身の経験や好きなことを発揮できるあたらしい『出番』を創出する「ライフシフトプラットフォーム」に所属するメンバーのライフシフトの体験と未来をお届けします。

聞き手:野々山幸 イラスト:山口洋佑

宮嶋洋子さんのプロフィール:
1999年、米国ペース大学卒業。同年、米国サンドラー・オニール&パートナーズにインターンから正社員入社。その後、日本興業銀行ニューヨーク支店に転職。2004年に帰国後、E&Yトランザクション・アドバイザリー・サービス、メットライフ生命保険、ドクターマーチンにてキャリアを重ねる。2020年に地元秋田県にUターンし、株式会社伊徳にて勤務。2023年に財務関連の業務委託などで独立し、LSPに参画。

年齢も性別も関係なく対等な立場で働ける。アメリカでの経験が価値観に大きく影響

――昨年、三期生としてLSPに参画された宮嶋さん。新聞記事をきっかけにLSPに興味を持ち、自ら問い合わせをしてくれたと言います。まず、宮嶋さんのこれまでについて教えてください。
 
宮嶋:高校卒業時に大学に進学した先を想像できず、服飾系の専門学校に進みました。家族もホワイトカラーのキャリアを歩む人はほぼおらず、手に職をつけて働いていたので、当時の自分にとっては自然の流れだったんですね。専門学校から地元で就職してパタンナーの仕事をしていたのですが、体調を崩してしまい半年ほどで辞めることに。しばらく休んで体調が落ち着いた頃に、地元の町役場に先輩や同級生が勤めていて「働いてみない?」と声をかけてもらったんです。自治体の農業に関する事業などに携わったのですが、これがすごく楽しくて! その後、ビジネスの道を歩んでいく大きなきっかけになりました。
 
もっといろいろな経験をしたいと思い、秋田から上京して仕事を探すことに。派遣社員としていくつかの企業で勤めたのですが、外資系の企業が多く英語が必須の環境で、自分にはその基本スキルがなく、仕事やコミュニケーションに不利でした。英語を勉強したいと思ったこと、また、当時は大卒でないと正社員採用が難しいと言われてしまって。ここで初めて大学で学び卒業することの必要性を感じて、26歳でアメリカに語学留学し、その後現地の大学へ進学することにしました。
 
――すごい決断ですね! 20代後半で学生になり、異国で暮らすことに迷いはありませんでしたか?
 
宮嶋:私は3人兄弟の末っ子であまり深く考えるタイプではなくて(笑)。これだと思ったら、頭で考えるよりも行動するタイプだったのかなと思います。それに、当時はまだ若くて、やりたいことに突き進むエネルギーに満ち溢れていたなと感じます。学生寮に住んで、10歳ほど年下のルームメイトと一緒に生活することも、とても刺激的でした。
 
留学したものの、自己資金で行っていたので、当然4年間大学に通うほどの十分な資金はなかったんですね。何とか奨学金などをもらって大学に通えないかといろいろな学校の資料を集めて、ときには窓口に相談しに行ったことも。とにかく動きまわって情報収集をして、何とか学び続けられる方法を探しました
 
また、働かないとお金は減る一方なので、学生ビザで学校から承諾を得れば働けるインターンの仕事を探したところ、すぐに採用してもらえて。すでに日本で仕事をしていたので、会社員として担当業務をこなすという社会人経験と、PCスキルがあったことがよかったみたいです。学生をしつつインターンとして働くのは大変ではあったのですが、職場の人たちが気にかけて、親身になって声をかけてくれました。学校の課題が遅れ気味だったときに、見かねた同僚が英語を確認してくれるなんてこともありましたね。そのまま卒業後も働くことになるこの会社で出会った人たちには本当によくしてもらったし、仕事の仕方や思考に大きな影響を受けました
 
――アメリカで学び働くことで最も影響を受けた部分や、ご自身で変わったなと思うところは?
 
宮嶋:年齢も性別も関係なく働けて、そもそもあちらは先輩・後輩という感覚があまりないんですよね。役職があり、縦の関係ももちろんあるのですが、それはまだこの仕事であなたの経験が浅いだけだから、と社会人として対等な立場で接してくれる。どんな相手にもリスペクトを持った上でフランクに話してくれて、仕事の機会も平等にあるところがすごくよくて、私はとても働きやすかったですね。また、キャリアアップは自分次第なので、今後どうなりたいかを意識しながら仕事をしていたと思います。
 
アメリカでの働き方、環境、人との距離感などがすごく合っていてなかなか日本に帰る決断ができなかったのですが、在米中に9.11(2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロ事件)があり、限りある命や家族について考えたこと、ネイティブの人たちの中で働くことに限界も感じ、2004年に帰国しました。

帰国後は義務感と責任感で仕事をこなし、私生活とのバランスにも悩むように

――帰国されてからのキャリアについても、教えていただけますか?
 
宮嶋:一度は地元の秋田に帰ったのですが、やはり就職先が見つからず、再度上京してコンサルティングの仕事に就きました。最近はかなり変わっていると思うのですが、当時のコンサル業は残業や徹夜が多く、とにかく激務で。体力的に相当キツかったですね。
 
また、プロジェクト単位でお仕事をするので、担当した企業と関わる時間が1か月とかすごく短いんです。プロジェクトが終わると、その会社がどうなっていくかを見届けることができず、会社の中に入ってもう少し長いスパンで仕事ができるといいなと感じて、保険会社に転職。会社との関わり方が変わり、仕事内容は充実しました。ただ、今振り返ると、この頃からいろいろと葛藤を抱えたり、悩んだりすることが増えていた気がします。
 
――お話を聞いていると、現状に満足せず、どんどんキャリアアップしているように見えるのですが……?
 
宮嶋:アメリカにいた頃は仕事が楽しかったのですが、帰国してキャリアを積み、責任が大きくなってくるとやりたいことではなくて、やらなければいけないことが増えて。会社から求められることをこなす毎日になっていて、その義務感と責任感だけで黙々と仕事をしていました。
 
あと、20〜30代までは自分がこうなりたい、こういう仕事をしてみたいという思いが原動力だったのに、だんだんと自分の目標に対して仕事をすることへの興味が薄くなってきていました。年齢を重ねて、人のためだったり、誰かに喜んでもらうために仕事がしたいと思うようにもなりました。
 
さらに、私生活とのバランスにも悩んでしまったんです。家族の近くにいようとアメリカから帰国したはずなのにまた離れてしまって、順番からいくと両親は先に亡くなってしまうはずで、このままだと自分が後悔すると思いました。ちょうど、親が介助介護が必要になってきていて。兄夫婦と同居していたので私が帰らなければいけないわけではなかったのですが、兄たちが働きに出ているときなどに少しでも助けになれたらと、Uターンで地元の秋田に帰ることに。
 
地元の企業に就職したのですが、やはりまた忙しくなってしまい親に会いに行けない状況が続いてしまって……。これでは本末転倒だと思い、昨年独立を決意しました
 
――その時その時で、自身のキャリアや思いと向き合い、ライフシフトを繰り返してきた宮嶋さん。転職や移住などに戸惑う人も多いと思うのですが、柔軟に変化を受け入れる秘訣はありますか?
 
宮嶋:やはりアメリカで身についた価値観が大きくて、転職して自分の知識やスキルを高めてステップアップしていくことが、普通に当たり前に行われていたんですね。日本の終身雇用の良さはもちろんあると思いますが、アメリカではひとつのところにずっといることの方が少ない。私もその中で社会経験を積んだので、こういう働き方に抵抗がないんです。アメリカ時代の友人は複数拠点があり、あちこちで活動していたりするので、その影響もあるのかもしれません。
 
ただ、私は変わらなければいけない、とも思っていないんです。検討した末に今のままがいいと思えば、もちろんそれでいい。でも、私はここにいるしかない、もう変われないと決めつけてしまわないほうがいいんじゃないかなとは思います。いつのタイミングで、どんな可能性やチャンスがあるかわからないですし、考えを固めすぎずに、変わっても変わらなくても、自分が心地いいと思える道を探して、進んでいけるのがいいのかなと思っています

新聞記事を見て、飛び込みでLSPに参画。人との出会いから活動の幅も広げたい

――あらためて、LSP制度について知ったきっかけと、どんなところにメリットを感じたかぜひ教えてください。
 
宮嶋:昨年独立をしたのですが、地方ということもあって人との出会いがないんですね。私は企業分析や財務業務などのサービスを提供することが仕事なので、まずは知ってもらう機会を作らなければいけないなと。そんなことを思っていたときに、オンラインの新聞記事でLSPのことが紹介されていて、すごく興味を持って。所属している方たちが、いきいきと楽しそうに活躍しているのがいいなと思い、すぐにメールで問い合わせをしました。確か、昨年の夏に問い合わせをして、10月に三期生として参画したので、かなりスピーディでしたね。
 
セッションなどで知り合った方と直接連絡を取り合ったり、グループ会やセミナーで同期はもちろん一期生、二期生の方ともお話する機会があったり。また「売れる仕組み創造室」の取り組みに関心があり、昨年末ぐらいにメンバーの方とコンタクトを取って。するとすぐに「経営診断とかできますか?」とお話をいただき、私ができる財務分析などでお力になれそうだということになりました。メンバーの皆さんはクリエイティブのプロなので、私はそこを学ばせていただきながら、自分の得意分野で何かプラスになれればと思っています。
 
あとは、リスキリングができることもLSPのメリットだと感じています。
 
――現在は、どのような学び直しをされていますか?
 
宮嶋:独立してから自分の経験やすでに持っているスキルしか提供できるものがないので、学び直しで新たにできることを増やしたい。自分の経験やスキルと合わせる、繋ぐことで、これまでよりも広い仕事を獲得できないかと模索しています。LSPのアカデミーでキャリアの棚卸しや将来どうしていきたいかを考えることがあり、いい機会になっています。これまであまりやってこなかった、クリエイティブなアイデア出しなども学んでいます。
 
今後は、AIがここまで進化して、AIがあるからこそできる仕事も増えているので、そこを含めてIT周りの知識やスキルをさらに学んで、身につけていきたいと思っています。
 
――地元にUターンされたことで、暮らしも変わりましたか?
 
宮嶋:親しい友人とよく会うようになりました。30代まではどうしても仕事を優先せざるを得ず、地理的にもみんな遠くてなかなか会えなかったんですね。その間に、悲しいことにコロナで亡くなった同級生もいましたし、年齢的に病気になったなんて話を聞くことも。顔を合わせられる機会がとても貴重に感じて、今は時間を作ってでもできるだけ会うようにしています
 
昔は、自分とは考え方が違う人、価値観が合わない人と会うとしんどいなと感じたこともあったのですが、今は自分とは違う人生を歩んでき人の価値観が違うのは当たり前だと感じるように。違うからこそ、その人のおもしろみがわかるし、自分とはベクトルが違う発想を楽しむようにしています。
 
あとは、ペーパードライバーだった私が地元に戻ってから運転をし始めて、行動範囲が広がったなと思います。うちから電車などの公共交通機関では行きづらい三陸海岸や青森などに、小旅行に行くのも楽しみのひとつです。
 
――最後に、今後の展望や、やりたいことを教えてください。
 
宮嶋:仕事に行き詰まって楽しめなくなったときに、アドレナリンもドーパミンも出ずに黙々と働いて、このままキャリアが終わるのは嫌だなと思ったんです。独立してからは、生活費を稼ぐための手段としてだけではなく、自分がワクワクできる仕事を生活の一部としてやっていきたいと思っています。
 
これまでもいろいろな企業さんの課題解決をメインに取り組んできて、どのクライアントさんにももっと会社をよくしたい、こんな商品展開をしたいといった強い思いがあるんですよね。だからこそ課題が出てくるのだと思うので、私もそこに一緒に向き合って真摯に解決していきたい。それで喜んでもらえたら、こんなにうれしいことはないなと思います。